mixi版日記再掲載(3)『新撰21』におもうことなど

◇二回にわけて書いたものを、ひとつにして再掲載します。


◇コメントを頂いた分があり、自分の書いたものだけを最後につけてあります。



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『新撰21』におもうことなど  2010年08月06日07:46



新撰21 (セレクション俳人プラス)

新撰21 (セレクション俳人プラス)



穂村弘の現在にあえてウィークポイントのようなものを
 さがすとしたら、ひとつは彼自身の「単行歌集の少なさ」という点を
 あげられるだろう。にもかかわらず短歌の様々な場所で、
 穂村が大きな存在感を放っているとすれば、もちろんそれは
 彼の歌の読み手としての能力の高さとと表現の真摯さや状況への即応性に
 よるところが大きいことになる。
 とすれば、穂村弘の現在というのは
 「さまざまなひとがさまざまな歌を歌をつくる」
 という「現在」に対応したものであり。もしもさまざまなひとが
 さまざまな歌をつくるという時代がなければ、
 その「現在」はなかった、ということになる。
 これは別に批判としていっているのではなく、
 あたりまえのことだが穂村が「歌壇」と切り離せない
 歌人なのだ、ということを言っているのである。


◇こういう前振りをするのは、『新撰21』の若い俳人たちが
 一様に(またはさまざまに)「肯定」の感覚を作品から
 立ち上らせているとして、それは何を肯定しているのかというと、
 「(いろいろあったが)結局俳壇(のみが)がのこった」
 という俳句の現在を「肯定」しているのではないか、
 と思ったからである。
 別にそうだとしても松山千春の歌のように「苦〜笑いだ〜ね〜」
 と感じるわけではなく、そこからはじまるものがそれなりに
 ゆたかであり、どうみても「俳壇」から少しずれてしまったかにみえる
 夏石番矢がしきりに主張している「世界俳句」からは、
 こうした「ゆたかさ」が感じられずにいることに、
 俳句の不思議な因果の糸車を見る思いがするのである。




◇21人の収録されている俳人のなかでは、
 特に外山一樹と神野紗希の二人を好もしく思った。
 感覚的なものいいになってしまうが、「あ、かっこいいな」と
 思った、ということである。
 年齢を重ねてくると、自分より若い、あるいはキャリアの短い作者の
 作品というものに、おしなべて少し懐疑的になるように思う。
 また「こういうことは俺には出来ないなあ」という感想を沸かせる
 作者の態度や創作の方向の指向は、敬意ははらうものの
 特に自分が読んだり評価したりしなくてもいいようなものに思えて、
 こころの針がそれほど大きくはふるえない。
 そういう意味では、「あ、かっこいいなこいつ」というのが、
 私にとっては結構ベストに近い賛辞だったりする。
 短歌で言えば、斉藤斎藤(であってるのかしらん。この名前キーボード
 で打つのもひさしぶりだわー)や黒瀬珂瀾がこういう感想を持つ歌人である。
 作品が好き、というのとはまたちょっと別になるのだが。


◇神野紗希では、



 コ ン ビ ニ の お で ん が 好 き で 星 き れ い
                             紗希


 という句がいいと思った。
 一連の句作品には、柔らかな抒情性やいやらしくない若干の少女趣味性、
 ばからしさまではいかない青春性が適度にちりばめられていて、それは
 それで好感のもてる作品群ではある。
 掲出句、たとえば川柳作家の森中恵美子あたりなら、


 コ ン ビ ニ の お で ん が 好 き で 旅 終 わ る


 とでも結句をまとめるところではあるまいか。
 川柳というものが入口と出口に設定している「人生」という
 コンセプトへの結句でのすり寄りを、
 この場合私が勝手に想像しているわけだ。
 しかしここで作者の神野が「星きれい」という、多少の
 舌たらずなままの「断言」を結句にすえることによって、
 作者が自分を抱きしめると同時に俳句をも抱きしめるかのような、
 ちょっとした跳躍ににた自愛感を一句に与えることになったと
 私は思う。
 もうちょっと言えば、俳句を抱きしめると同時に「階級」をも
 抱きしめているのだと私は思うけれど、こういう私の言い方は
 他人の共感はさほど得られないだろう。




◇外山一樹は、戦後俳句の一部や新興俳句、ニューウエーブといった
 見慣れた非=伝統俳句陣営の俳句を自分なりに消化するという、
 結構うっとうしいところからスタートしているような俳句の作り手に
 私は思える。
 どうしてうっとうしいのかというと、そうした非=伝統陣営の俳句は、
 どうしてもその作品の「読者」を俳句を超えた場所に想定するかに
 ふるまわなければならないのに、実際にそんな俳句を超えた場所など、
 ほとんどありえないからである。
 ただまあそれはそれとして、必要以上に観念的な「暗さ」に逃げ込むことも
 なく、自分の身体の感覚からくるしなやかさを、自らの俳句の文体に転化
 させるかに、一句一句をつむいでいく、というのは、その風景に危険なまでの
 「未知」が提出される、というのではなくても、私には充分魅力的なもの
 であった。
 どれか一句、というのがとりにくいところは難点で、


 ひ と の 世 の カ ン ナ の 裏 を と ほ り け り


 を私は好むけれども「カンナは見えぬかもしれぬ」という過去の遺産が
 どうしても想起される弱さは否めまい。




◇この書への他人の感想を、私はほとんど見たり聞いたりすることなく
 これを書いているのだが、本書にはたいていの俳人にある
 (と私が思っている)「俳句を書くのが楽しかった時代」を
 想起させる力、というものがあるのではないだろうか。
 短歌をやめてしばらくしてから俳句を書き始めたころ、
 「獏」という雑誌での同期の今井豊と句会をともにしたことがあり、
 「句会やってないと俳句やってるっていう気がしなくてねえ」
 と私がいうと、彼もああ、それはそうかもなあ、と肯定の意を
 しめしてくれた。
 1990年代前半の俳句の空気というのは、まだ確かにそういうものだった
 ように思えるし、それ以降言葉の力で俳句の高みへのぼりつめる
 といった幻想は、俳句からもそれぞれの作者からも
 かなりの部分衰退したかに私には思える。
 ただそれでも、「情熱」という暑苦しい言葉にまでたどりつかずとも、
 そこにある「俳句」に毎日の自分の「生」と「生活」を
 かさねあわすことの、「よろこび」や「よろこびににた束の間のはかなさ」
 が、現在の俳句には地下水のようにあることは確かであり、
 本書はひとつのその具現化であり、証明であるのだろう。
 あと本書刊行以降のことになるらしいが、
 中村安伸くん対馬康子奨励賞受賞おめでとうございました。
 では本稿はこのへんで。









【まさおかさん2010年08月15日 13:06】



こんにちは、中村くん
正岡です。

なるほどツイッターかー。
こんなに流行る前にとったアカウントのは、もうパスワードとか
わかんなくなったのでほったらかしにしていますが、
もういっぺんとってもいいかなあとかもおもいますねえ。




中村くんの「孔雀機械」というのはタイトルもいいし、
選句も「若さ」と「若さだけじゃない」という部分のバランスが
とてもよく取れてると思います。
中村くんの句は私や外山一樹の句がどうしても逃げられない
「なめらかさ」というのからは距離があって、
ごつごつした結晶がごつごつしたままゆっくりと成長していってる
というところがいいんじゃないでしょうか。
ごつごつさ、というのはひとつの武器なんだけど、「武器」というのは
尖らさないとなまくらになっちゃうんでそこが「(自分の)魅力」
でやってるひとよりはきびしいところなのかもね。
北大路さんの


 男 根 が 触 れ て 蛙 が 触 れ な い



というのもいい句なんじゃないかとこのごろ思います。
たぶん彼は「かっこいい」を通り越して「いさぎよい」まで
いっちゃってるんだろうね。
でも2000年代初頭の今、「いさぎよさ」は「倫理的」であることに
ほかならなくって、そういう意味での R-18指定つきの宮崎アニメ
みたいなのがいまの彼の俳句なのかも。
ではでは。



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2012/10/3付記



穂村弘さんは今年歌集が出る、という話を聞いたことがあるけど
 まだなのかしらん。キーボードで打つのも久しぶり、と言う言葉
 が書き付けてあるのは、この直前まで私はまた短歌とも人とも遠ざかる
 ように暮らしていて、この2010年の夏に久しぶりに日記を書き始めたから。




◇もう『新撰21』もかなり昔になったような感じもしますねえ。
 こんなことばっかり言ってるかな。
 この本については俳句関係のウェブサイトでいっぱい触れたテキスト
 があるので、参考にしていただければ。



◇この一文を書いた時より、今は、新しい俳句の世代に対して、
 私はもっとシニカルです。今から20年〜30年ぐらいたてば、
 また「俳句」も変わるんだろうなあ、と自分の生死はともかくとして
 そのころの「俳人」に期待をかけます。



◇それから誰かに聞かれたわけではないですが。
 「折口信夫の別荘日記」という題に深い意味はないです。
 日記を書こうと思いついたときに、ふっと浮かんだだけです。
 また、過去の日記でその日の題と、内容が全く関係ないものが
 多くありますが、あれは、その「題」で書くことが、その日書いたものとは
 別に2000字〜3000字分くらいあったのだけれど、そこまで書く気力も
 時間もなかったためにとりあえず「題」だけ書いたものがほとんどです。
 例をあげると「これは先生、お厳しい」という言葉は角川源義の随想に
 出てくる、富安風生へのもの言いですが、その日の日記では触れていません。
 これからは普通に題をつけます。



               正岡

玲はる名個人誌「ブルートレイン」1号2号の感想

◇玲はる名個人誌「ブルー・トレイン2号」には、
 広瀬犬山猫(ひろせいぬやまねこ)さんの短歌30首が
 掲載されている。その中に次のような歌がある。


ラブプラス、彼女三人それぞれの名前がなんと「バカ」の二文字。
             広瀬犬山猫


 この歌は次のように変えてはいけないのだろうか。



ラブプラス、彼女の名前みんな「バカ」



◇玲はる名の個人誌、「ブルートレイン」、創刊号・2号を初めてさっと目を通したとき、
 まず感じたのは、自分の書いたものや強い思いで選択したものを、
 ひとに手渡したい、あるいは人の「読む」という身体の行為の中に
 すっと入れてみたい、といった「思い」の強度だった。
 違和感があるとしたら、ここには「仕事」という共通の感覚で共有される、
 「洗練」がないからだろう。
 この「洗練」はおもに日本のコマーシャリズムの中でのデザインがもつ「洗練」を意識
 して私は使っている。
 「洗練」はたぶんその時代や環境での「金銭的価値に還元可能」であることを常に要求
 されるものだと思う。私達が古い雑誌の表紙のデザインなどに、「洗練されていない」と
 感じるとき、それは「現在においてこのデザインでは売れない=価値が低い」と判断する
 からだ。ただ金銭的な価値そのものへの切迫感がある時代や環境、もう少しそれにはおお
 らかな時代や環境というものはある。現在には、そこに確かに切迫感があり、少なくとも
 私は多少の息苦しさをそこに感じてはいる。


◇1号は、江田浩司の短歌、三橋直樹の短歌と文章、玲はる名の小論と詩が掲載されている。
 江田さんの短歌と私の短歌の共通点は、いわゆる「前衛短歌」の文体の「辞の断絶」から
 自由になりきることが出来ていないというところだろう。
 自由にならなければいけないのか、と問われると私は答えに窮してしまう。
 つまり「窮する」ことが私の答えだということになる。




※素裸に巻けるマフラー君の手が野葡萄をつつむように光れり
                江田浩司



 一連は、音楽用語を多用して、男性から女性への情慕を調べにのせようとして作られてい
 るように思える。集中、引用した歌は、江田さんのどこかごつごつとしたいつもの韻律の
 まま、了解可能性のほうへ作品がやさしく開かれているように思える。
 歌会にこの歌が出されていたら、「初句は五音じゃなくて四音のほうがいいと思います」
 と私はいうだろう。


三橋直樹さんは初見の人で、塚本邦雄の文体の影響下にありながら、それなりに浮遊感を
 ポジティブな方へ開くような韻律を持つ短歌作品だと思った。感想を書くとそんな風にな
 ってしまう。こうした文体に現在、「資質と見紛う趣味の必然」というものはあるのだろ
 うか。あるかないかは何が決めるのだろうか。「市場の評価」だろうか。個々人の内的な
 価値付けだろうか。



※炎暑玻璃戸のよそのしじまよあすといふ射幸心にわれは生きつつ
                三島直樹



 『歌人』以降の塚本邦雄は「市井の単語」とでもいうような語をよく一首の中で使用し
 ていた。その成功の度合は、塚本自身によって反故とされた同種の歌でも公開されない
 限り、たやすくはつかみにくい。とはいえ、鶺鴒や致死量という見慣れた語ではなく、
 射幸心という単語を選択した一首を、引用して、感想とすることを許されたい。
 (なんか文章がおかしくなった)


◇同じ三橋直樹塚本邦雄の長い一首評はこの時点まで完読出来ずにいる。
 林和清によれば、塚本邦雄のどんな歌集が好きかと(ある時期までに歌作をはじめた)
 人に聞くと、その人が意識的に歌作を始めた時期に刊行された歌集であることが多いと
 いう。藤原龍一郎さんは、そういわれれば私も塚本では、『星餐圖』を好むというよう
 なことを書かれていた。林和清は『歌人』だそうだ。私は『されど遊星』『閑雅空間』
 だろうか。
 しかしそれよりも印象深いのはやはり評論、「零の遺産」である。これだけ長い評なの
 にあの「前衛短歌運動の最初期」に書かれた論にほとんど触れていないのが、どこか私
 には身を入れて読むことが出来ない疎外感のようなものがあるのだ、たぶん。そうだと
 は思うが、それが現在の塚本論というものだ、と言われたら、そうですか、とも思った
 りはする。


◇続いて、玲はる名の小論。これもちょっと私には完読出来ていませ。ごめん。


◇続いて玲はる名の詩篇
 すべてを読みきったというわけではないので、そこまでで感想を。
 一言で言うなら、「内省的」だな、ということになる。
 「詩」といったとき、それはそれで幅は広いのは当たり前だが、それでもどこかで私
 たちはある程度の「黙契」のようなものを詩に抱いている。文月悠光とジョン・ベリ
 マンを並べて文章を書く人はいないと私は思う。「言葉」は「市場」の中にあり、
 文月とベリマンを並列させる必要のある「市場」はないと思うからである。
 ベストセラーになった、『くじけないで』も、もちろん、黙契というには普遍的過ぎ
 る情感の隣接感を、また「詩」という「黙契」で手渡しているといえる。
 私は「現代詩」という「黙契」の中で書かれる詩作品が比較的好きな人間である。
 玲は、とりあえず「現代詩」という「黙契」の中から言葉を出してはいない。
 悪いとかいってるのではなく、そこにはそこなりの「黙契」を大きく自作する必要が
 あるのかも知れない、という思いのほうが先行する、ということが言いたいのである。
 ただそれはそれとして、色調の薄いイメージで構成される散文詩郡は、書き出しの呼
 びかけとも「詩をはじめようとする場所」とも取れる一行で、それぞれはじめられて
 いるように思える。そこからどの方向へ読者を連れてゆこうとするのか。
 「読者」としての私は、そこにもう少し「快」を期待してしまう。


◇以上で1号の感想を終わる。
 2号まで書きたいが、少し疲れた。
 あとは冒頭の部分だが、あの感想が浮かんだときに私ははじめてこの一文を書き出せ
 た。私はやはり「短歌」です、といって差し出されたなら、ああ、これは「短歌」だ
 ね、と反応出来るものが読みたいなあ、と思っているらしい。
 人に強要するつもりは全くないが、詩の領域は広く、それぞれに「歴史」をもち、「
 冠句」を始めとするついこないだまで誰でもやっていて、誰も知らないうちにほとん
 どの人があることすら知らなくなったジャンルというのも確かにある。
 それでも、それぞれのジャンルなり詩型なりに注がれた「愛情」はあり、私はそれを
 大切にしたいと思っている。


                   正岡
 
 
 

mixi日記再掲載(2)『アフロ・ディズニー2 MJ没後の世界』の感想文

◇二回目。少し時期を遡るともうそんな本誰も読んでいないんでは、
 という印象があるこのごろ。もうこの本も古いという印象が。

◇感想文とつけるのは、「書評」と自分であんまりいいたくないなあ、と
 思うからですね。

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アフロ・ディズニー2 MJ没後の世界

アフロ・ディズニー2 MJ没後の世界

ーもしもし
ーなんか用かね。
ーいやミクシイに書いてたさぁ、
ーうん?
ー『アフロ・ディズニー2 MJ没後の世界』っておもしろかった?
ーあー
ーあー
ーなんかあとがきでさ。
ーうん
ソーカル以前以後がどうこうとか出てきてさ。
ーうん。
ーそれってなんか『思想地図』とかいう雑誌かなにかで東浩紀と話してた
 らしいんだけど、そーゆーこと日常的に話してるひとほんとにいるんだー
 とか思った。
ーあんたたちだって佐太郎とか白秋とか日常的に話してるじゃない。
ーおれはしてないよ
ーどうかしら。あやしいもんだわ
ーなんだよそれ。でまあそういうこと話してて、何が書いてあるかというと、
 なんでヤンキーや暴走族は結婚がはやいのか、とか書いてあんのね
ーえー誰が話してるの?
ーいやそれは鈴木謙介のとこなんだけどね。
ーなんでそんな話してんの? で、なんではやいの?
ーいやーよーわからん(笑)。まあ奈良とかだとそういうのは公営住宅の問題
 だとおれは思うんだけどね。
ーそれもわかんないんだけど
ーいや、奈良だとヤンキーとかそういうのは、市営とか県営とかの住宅に親が
 住んでるとかいうのがあってさ。あと強制立ち退きで用意された住宅とかね。
 そういうとこだと家賃が高くても五千円とか一万円とかだから、入居がしや
 すいんだよね。
ーそんなとこぱっとはいれないじゃない。
ーいや、そこがうまいことできててね、なんか住んでるひとがまた住めるよう
 になってるんだよね。まあそこははしょるけど、そいで、家賃が安いから、
 なんかあいてるとこも親戚のひととかがずっと借りてて、おう所帯もつん
 だったらあそこに住めよ、とかなるんだよね。
ーそういうのってずっと借りてるの?
ーうん。三つぐらいそれがならんでるとことかは、なんか不気味だよ。
ーそれはいいけどなんで慶応でそんな話してんの?
ーいや、それはまあ「若者論」とかいうことの話の部分なんだけどさ、
 まあなんかソーカルとヤンキーとかはやっぱりちょっと次元が違う
 というか、そんな話しててホームレスにはコミットできてもヤンキー
 とか会社パラサイトとかにはなんか触れられないんじゃないかとかは
 思ったけどね。でもあと村上隆のとことかはおもしろかったよ。
ーえーあなたあんまり好きじゃないでしょー
ーあ、まあね。でも竹熊健太郎のウェブサイトに村上さんの工房のこととか
 書いてあって、そこでは商品として「現代美術」を提供する「企業」の
 峻烈さがあるとかみたいなのがあって、それ読んでからは結構好きだよ。
ーふーん。
ー「スーパーフラット」展のカタログかなにかに、「銀河鉄道999」の
 金子云々とかが書いてあって、それはなんのこっちゃとかは確かに
 思ったんだけど、あれだよね、ルネサンス期のイタリアの工房とかの
 雰囲気であのひとはやってるんじゃないかね、こういう箇所があってさ、
 えーと、ちょっと待ってね。
ー漢字は少なくしてね。あなたしゃべりだすと多くなるから。
ーはいはい。あ、ここ。



 『村上 /だからその『マクロス』がいかにパリ・モードに入っていくか
  というのを手助けできれば・・・
  菊地 /はい。
  村上 /世界平和が起こると思います
  (一同爆笑)
  村上 /いや芸術家ってね、何がやりたいかっていうとやっぱり革命を
  したいわけですよ』



ーあなたもね
ーそうそう




 『村上 /無血革命をすることは芸術家の使命であって、ジョン・レノン
  やったことで世界中が共鳴したわけで、スティーヴ・ジョブズでも何で
  も無血革命をやるためにああいうイクイップメントを開発しつづけるわ
  けじゃないですか。そのなかで、やっぱり僕が自分でできる無血革命は
  何かっていうと、それは『マクロスF』のようなースットコドッコイな
  ストーリーなんだけれどもー超弩級平和主義?
  菊地 /ハードコアな平和ということですね』




ー『F』なのかー。『7』じゃないんだー
ーそうそう


 『村上 /そういうすごい平和主義を、どうやってパリ・モードに合体させる
  かっていうところにテーマを持つと、ほんとにそう思ったんで、菊地さん
  の言ってることは正しい、と思ったんですよ』



ーそれって『マクロスF』みてないとわかんない話?
ーあーどうかなー。まあだいたいこんなんだけどね。あとモードの話とか
 いっぱい書いてあるよ。もちろん「輪郭」とか「顔」の話とかね。
ー顔大事だよねー
ーめちゃめちゃ大事だよねー。昔「かばん」の会にはじめてでたときにさ、
ーうんうん
ー植松大雄っていう歌書いてる男の子がいてさ、
ーうん
ーもー「アボットコステロ」のコステロそっくりなわけよ。おもわず胸倉
 つかんでさ「おまえコステロとちゃうんか! 走れよ!「お〜〜〜い、ア
 ボット〜〜」とかいってその辺走り回れよ!」とか言いそうになったよ。
ー胸倉つかんじゃだめよー
ーつかまないよ。でもだいたいコステロ顔だったよね、あのころの男の歌人は。
ー今は?
ーあー、どうなんだろう。わかんないや。
ーそうなんだー
ーあとがきに「現代音楽といったって、あんなの、70年代のブームだものね」
 とかいうのもあとがきにあって、これはただくんにプレゼントしたい。
ーすればー?
ーあと「そんなに日々大変なのかなあ」というのもあるよ。
ーそれはあなたへのプレゼントなの? 
ーどうかなあ。あー忘れてた。だからさ、浅田彰が時代をのたくって出てきた
 のが勝間和代だとしたらさ、
−話とぶねー
ーやっぱりこれって『GS』がのたくって出た本じゃないのかな。ほんとは、
 わかいもんにいかにジャズを聞かすか、ってことの本らしいんだけど。あと
 なんか二人組っていうの? 松浦朝吹とか山の手緑と誰かとか? なんか
 そういうのがありそうな感じの本だよ。
ーふーん
ーわるいー、じゃごはん食べにいってくるよ
ーなんかこういう電話してるといつもオンラインゲームで落ちるとき
 みたいに終わるわね
ーだってこれオンラインゲームじゃん
ーそうかー


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2012/10/1 付記


◇このころ架空の女の人が電話をかけてきて話す、という
 内容の日記をよく書いていました。他にもありますが、
 まあそういう風に書きたかったんでしょうね。


◇「はまぞう」で書影を紹介するのは、書名やその詳細を打ち込む手間が
 はぶけるからです。


◇あと「顔」のことですが、女性はともかく、その時々の若い男性歌人
  (などと言わないと昨日書いたばかりなのに書いてますが)
 の顔というのは非常によく似てるところがあるように私は感じます。 
 「町」の関西批評会などで会った方も、そうで、
 一度や二度あったぐらいでは全く見分けがつきません。
 あのとき話をしたのに正岡豊は私のことをさっぱりおぼえていない、
 と思われた方もいるかもですが、そういう方には誠に
 申し訳ありません。他意はないんですけどねえ。

 
村上隆の章のことしか書いてないですが、他のところはあんまり
 いまだにまだ読んでないですね。
 去年あたりの「美術手帖」で(『BT』が正式名称なのかな、今は)ベルサイユ宮殿での
 村上の展示作品が紹介されていた号がありましたが、
 その展示は、おおすげえな、やっぱ、と思いました。

               正岡
 

mixi版日記再掲載(1)抒情のポジション-同人誌「町」4号評

mixiだけで日記や短歌を書いていた時期があり、サイトにのせた
 「アマポーラ」もそのときの作品です。
 こうしたblogとの差は、やはり「検索」にひっかからないということだと
 私は思っています。少し時期的には過去のものになりますが、その中から
 書評っぽくまとまっているものを随時こちらに転載してゆきます。
 末尾に現在からの思うところも書いておきます。

トラックバックは表示されないようにしてあります。



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★抒情のポジション-同人誌「町」4号評★   2010年12月29日15:08

◇何かを作る、書くときひとにはそれぞれ固有のポジションがあり、
それは時代や環境と、作る本人の関係性によって決定される。
 とはいうものの、「時代」だの「環境」という単語の概念も、それ
自体が大きく「時代」や「環境」に左右されるわけで、そういう意味では
最終的には「関係性」という危うい言葉だけが「固有のポジション」を
決定づけるのかもしれない。
 2010年に20代の中間ほどの年齢であること、同人誌「町」の集団の特性
を私が一言でいうとすればそのことにつきる。
 短歌や俳句、別に現代詩でもよいがそういうものが「ジャンル」であった
のは少し昔の話で、今は「ジャンル」というよりはそれらは「ソサエティ
と「ジャンル」の曖昧な混合のようなものとして、特に若い世代には認識
されているように私には思えてならない。
 先験的に「短歌」というジャンルなり「定型」があるのではもはやない
のだろう。
 共有とも共感とも言い難い柔らかな感受性の束のようなものに、若い世代
の書く歌は大きくくるまれている。
 それ自体がいい悪いというものではない。
 ただ短歌の韻律が孕む(あるいは孕んでいたかに思われた)過度の危険性
というものは彼らにはない。
 自己実現と自己確認が重ねあわされながら指し示すあえかな「希望」とい
うものを目指している。それが現在の若い世代の歌だと私は思っている。

◇ということで、「町」4号である。
 本号は表紙も内容もそれまでの号とは違って、白黒と文字(短歌作品)のみ
で構成されていて、それまでの号の錯綜したパーティーのような雰囲気はなく
なっている。そのかわり本号は、販売価格をおかずTAKEFREEの無料配布
版になっている。
 そのことの是非はともかく、「変える」ことは悪ではない。
 「雑誌の連続発行形態に組み込まれた解体しきった読者の残像」と彼らが決定
的な戦闘を挑もうとしているか、は別として。
 では各作家たちの作品評へ移ろう。

◇土岐知浩「ever green」

 若い世代の男性の短歌の韻律はどこかものさびしい。
 充実したり幸福であったりすることがかえってマイナスのように感じているから
だろうか。
 秋葉原へいって人殺しをするような人間のほうが、どこか「自分より上」の存在
と感じているからだろうか。
 私はもう若くはないのでそれはわからない。


*冬の森の向こうに山が見えていて耳をすませば悲しいばかり

*まるでそこから浮かびあがっているようなお菓子のそれでこそビスケット

*古き良きものは悲しく僕の手に馴染まない種子島のはさみ


 韻律に幼さが垣間見えるのはたとえば「冬の森の」で二つ目の「の」、必然性にいささか欠ける
六音のふくらみのせいだと私は思う。ここで作者が「冬の森」で切らなかった ことは私にはよく
わかる。もっと縮めれば岡井隆の、おれだって冬森だよ、といった 一首に彼の歌が近づき過ぎて
しまうからである。
 そして、読む者は、「うーん、わかるけどほんとにそんなに悲しかったのかな?」
という疑問のうちにこの歌を読み終えることになる。
 二首目は私の言い方で言えば長嶋有的な真剣さへの違和感や技巧的なそれへの回避
とでもいうものが「それでこそ」という一首の眼目的な部分に充填され、ある意味で
はされ過ぎていると感じられる。
 私は今、他人の歌を読むとき「解放されたい」と思っている。
 そんなに私は解放されていないのか、というのは私にはわからない。
 しかし「決定的な選択」を自らに課しながら課した自分のままでなお「それからの
解放」を願う、というところに、私は短歌を書き読むことの大きなチャーミングさが
あるように感じる。
 そういう意味では一見古典的でNHKの『美の器』でもみて作ったんじゃねーの的な
発想の三首目を私は好む。「悲しく」が多少安易に見えるのはしょうがないがこれは作
者が歌を書くときに速度にむしろ起因する。
 私に言えるのは確かにこの歌は「種子島のはさみ」でなければだめだろうな、という
確定性で、またこの歌の一首内部での一人宴性が、「道具」としての「はさみ」とよく
あっているような気がする。「はさみ」を集団で使うのは、子供のころの図画工作の授
業とかそんなものであろう。もともと「はさみ」はひとりで使うものであり、今は文房
具にも近いけれども昔は「民具」である。
 そんなもんなじむわけねーじゃん。
 土岐知浩は「師」を持っているのだろうか。
 あったことも関係をもったこともない私にはわからないがぺったりとした生活の叙景
の歌からは離れたいと思って歌を作っているように感じられる割には、過剰なまでに「隙」
を排除しようとする意志がいまひとつ希薄に感じられるのは否めない。
 現実の読み手はいつでも自分が思うよりは点が辛い。
 その「辛さ」に耐え、乗り越えようとする者だけが、成長する。
 教条的なものいいになってまことに申し訳ないが、結社内部の短歌作家たちは結構その
ことを意識無意識にかかわらず体感している。
 そのことをさらに意識して作歌しつづけてくれることを願う。


◇瀬戸夏子「『奴隷のリリシズム』(小野十三朗)、ポピュリズム、「奴隷の歓び」(田村隆一)、
 ドナルドダックがおしりを出して清涼飲料水を飲み干すこと」


 瀬戸の新作は、ディズニーワールドに潜む「かわいらしさ」への欺瞞性と、高校生の時に
穂村弘の『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』を読んで短歌に目覚めたといった
世代的な「君臨性」にもとづいた韻律のミックスジュースのような味わいの一連に仕上がっ
ている。

*海や朝にはあいさつがなく わたしたちには殺人ばかりがあると サンタクロース

*母や父が怒りからはみだす ゆっくりとレベルを上げる いい人を殴る

*かけがえのない無実の罪で、筋肉の 光の充実 ポップコーンといもうと

 「海や朝」といったきれいなものやロマンに対して言葉の世界では私は疎遠だという
自覚と、関係性のテンションが最も高く感じられるのが「殺人」だというようなメディ
アによってなかば作られたと感じられる世界が、サンタクロースに代表される「ギフト
=贈与」性として意識されるという瀬戸自身の感覚が、一首目では適度な毒とともに
提出されている。一首は瀬戸独特の「長律」の(しかし実際にはこの歌はさほど長くは
ない)イメージの韻律によって構成されている。
 そこに「女性」が「現在」を生きることの切実さ、が同時に重ねあわされている、と
感じるのが、私だけなのかどうかは、あんまりわからない。
 穂村弘が『手紙魔まみ』で提出した短歌の解体や破壊の先で、何をすればいいのかを
肉感的な切実さで考えているのは私には現在瀬戸夏子ただ一人のように感じられる。
 だがだから瀬戸夏子はえらいのか、というと別にそんなことはない。
 それぞれの歌の詠み手はそれぞれの人生や生の実情に基づいて自分の短歌を書いていく
ほかはない。
 「評価」は課題そのものの価値ではなく、あくまでも結果としての達成感によるといっ
てよい。
 それでも、彼女の短歌の韻律の、自由律でも新短歌でもないところからくる韻律の斬新
さや、読む人を暴力的な解放感のもとへいざなおうとする声調の手触りを私はとても好も
しく思う。
 ないものねだりはもし彼女の子供時代に近所に別所真紀子のような人がいて、**五世
襲名云々といった現在の短詩型のアナクロニズムでありながらそれはそれでかけがえのな
い詩的価値観を彼女に叩き込んでくれるものがいなかったことだろう。
 だから彼女の歌には「現在」という巨大なブティックをほんとうの一着を求めて泳ぎ回
っているような浮遊感とその無為の行為へのかすかな悲しみが感じられる。
 「いい人を殴る」のは彼女にだけ許された「特権」である。
 そして三首目の「いもうと」には実際に彼女には「いもうと」がいるのだ、という事実
を知る者にしか伝わりがたいという、短歌作者ならだれでも武器でもあり罠でもある読者
と作者の近親性へのもたれかかりがあるのである。
 彼女の歌に大きなひまわりのような「大開花」がもたらされるのかはほんとうに神のみ
ぞ知るところである。
 ただ私は、そこにひとつの現在の短歌の「希望」があると思えてならないことだけは、
ここに記しておく。


◇吉岡太郎 「No Maouth」


 吉岡の短歌は私にはよくわからない。
 だからここは省略してもいいのだが。

*そこらじゅう凌辱死体の廃駅へ安らかに冬の帳がおりる

 今回の「町四号」の吉岡の作品はある擬似的な人格をもとに一連が構成されている。
 というか、吉岡はたとえば笹公人と似ている作歌基軸の持ち主で、短歌の韻律と内容の
フィクショナルな乖離を生き続けるほかにはなにもない(ただフィクショナルであるゆえ
の読者がわの受容を期待できる)短歌の作り手なのではないか。
 正直に言えば私にはそこにはほとんど興味がない。
 自分の好みにあった何かがあれば、読んでにやりとするだけである。
 引用歌はそういうものである。


◇服部真理子「スカボロー・フェア」

 服部の短歌の「学生歌人っぽさ」はどこからやってくるのか。

*ゆるやかに蔓からめあう昼顔の まひるの丘を超えゆく人よ

*きみの着る簡素な服に桃の汁したたりこれが夏だったのだ

 石原裕次郎の若いころの映画のアップトゥデイトのようなこれらの歌の雰囲気からそれ
はやってくるのだろうか。
 ひとのことは言えないが、歌は所詮は「言葉」である。
 しかしそれをネガティブにとるかポジティブにとるか、また、自己実現の手段にとらえる
か人生の夢のようなものにとらえるかは、それぞれの作り手にまかされている。
 そういう意味では、服部の短歌にはまだそこが未決断なのだろう。
 短歌株式会社に就職しました、といった覚悟なり欺瞞の呑み込みなり、呑み込むことの果
てに真実があるというまやかしでもなければ虚飾でもない場所へまだ彼女が踏み込んでいな
いといった感覚を服部の歌がもたらすところにその理由はあるのではないか。
 ただそれはそれで私はいつもいうことで多少ばからしい気もするが、悪でもなければやは
り善でもない。
 一首目が韻律に流されて具体性や現実性に欠けるところは否めないし、二首目の独断が圧
倒的で普遍的ななにものかへ到達しているとは言いがたいのも否定できない。
 ただ好もしさは、それでも「見たまま」を歌うことへの本能的な抵抗感が、一首一首のな
かでたからかなトランペットのように読む者に感じられることだろう。
 誰でも綺麗ねといわれたら喜ぶだろう。
 しかしそこにいささかの欺瞞でもあれば激しい怒りを感じるのは、別に女の子の特権でも
なんでもない。
 でも世界はお世辞に満ちている。
 そこなのかそこでないのかはわからないが、服部がより自分の深みにたどりついたとき、
彼女の歌から「学生歌人っぽさ」はなくなってゆくのではないか。
 俳人の江里昭彦の初期の俳句のようなこの一連の掉尾の次の歌には、そういうものへたど
りつこうとする彼女の欲動が感じられるといえば、ひとは笑うだろうか。

*光・・・と言いかけたまま途絶するアオスジアゲハからの交信


◇望月裕二郎「うんともすんとも」

 文体が先験的に「口語」を選択する、というタイプの短歌の作り手がいて望月はそういう
タイプの詠み手ではある。
 という書き方をするのは、私は結構こういうタイプの歌は苦手だからである。
 永井祐とかもそうである。
 ところが、歌壇の外へ出て、佐々木あららのような歌になると、私の好悪は逆転する。
 佐々木の中で出すか外で出すかといった歌は実は私は好きなほうなのだ。
 このあたりは単純に高校生ぐらいに岡井の『土地よ、痛みを負え』のようなものが「歌」
なのだとインプリンティングされたか否かというただそれだけかも知れない。

*ちるようにあるくわたしは犬としてじぶんの命をじぶんできめる

 ただ、こういう歌に展開されている、口語系の「一行詩くささ」というものを、今はほとんど
私以外にはわからないような時代であると思う。
 そういう意味では望月も「時代の子」であることには違いないが、だからどうしたとかいうと
あんまり私にはどうしたもこうしたもないというか、ごめんとあやまることでもないが、少しだ
けおもしろがれなくてごめんなーといいたくなるところもある。
 吉岡に対してはそれはない。

◇平岡直子「卵と檸檬

 平岡の歌がどこかなつかしいのは、彼女の歌がいつも古典的な「相聞歌」
の表情を帯びているためである。
 とはいうものの、「相聞歌」というのはいわゆる「絶唱」の世界であって、
それはこの「その日暮らし資本主義」的な時代にはそれなりの変成作用を
おびる。


*スーパーにいる恋人を目で追えばまるで観賞用の魚だ


 などはそのちょっとした「スーパー」のチープさにおいて、倉田比和子
の詩「スーパーオリンピアからはじまる」などとは決定的な距離感がある。
 また、彼女の瀬戸夏子作品への敬慕が感じられる、


*春といえばワンピース。ワンピースといえば夏。夏が終われば秋


 などの歌は私には好ましいが他の人にはどうだろう。
 しかし以前にも書いたが、平岡には、31音の定型の中で、言葉にやわらかい
湿り気をおびさせながらなおかつ過度に垂れ下がらない洗濯もののような、
やわらかさがある。
 私はそれを好む。
 一冊の歌集にまとまったときには、それは思いもおよばない編曲のよう
に、彼女の歌に重層的な響きを与えるのではないか。
 語彙にせよ素材にせよ、今より安定感は欠けるとしても、とんでもない
ものを歌ってみようとするときそれはまたあきらかになるのではないか。


 以上、次号は来年六月だそうで、また好もしい光景を見せてくれること
を期待しています。

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<2012/9/30付記>


◇同人誌「町」の感想は、「町」の同人の方たちはコピーして読んでいただいた模様で
 mixiで書いたとはいえ、そんな風に読んでもらえればそれで私は満足でしたし、今もそうです。


◇このあと同人誌「町」は5号を出して、終刊。5号は私にはちょっとぴんとこなかったですね。


◇同人の平岡直子さんは、その後「歌壇」の新人賞を受賞、服部真理子さんは短歌研究の新人賞の次席
 と、他の方々も含めてその活動の足跡を伸ばし続けているみたいです。

◇いま書くと、もっとクールな書き方になるでしょうね。この文章は二年ほど前ですが、
 私はもうあまり「今の若い世代は」とくくるような書き方をしないと思います。
 それほど短歌を大量には読んではいないというのが大きいですね。

◇服部さんのところで言及している江里昭彦の俳句は

 個として在(あ)り 展(ひら)いて 光に喪う  江里昭彦
       句集『ラディカル・マザー・コンプレックス』より

 という句集掉尾の句です。
 あと倉田比羽子さんは今年現代詩文庫の詩集が出て、手に入れやすくなりました。
 「スーパーオリンピア」が入っているのかは知らないのですが。

◇ということで。「町」に関しては他の号のも書いているのでそれもまたアップします。

         正岡

「川柳カード」創刊記念川柳大会投句

◇ということで、ツイッターで言った大会用の下書き句と、出句したものです。

◇課題・脈


静脈の中でうちわを母が振る


戦争が今も脈打つ日本海


清盛の病の脈と春の雲


風に脈あるかと秋刀魚焼きながら(投句・落選)


きみという水脈だけで生きてゆく(投句・落選)


◇すれすれ


すれすれの喫水線の恋なんて(投句・落選)


こころには空すれすれの芥子畑


さみしさが肩甲骨をすれすれに


すれすれのお皿のへりのトマトです(投句・落選)


すれすれの石焼き芋の涙かな


◇ピーマン


ピーマンと金魚の恋を終わりまで(投句・落選)


戦場を逃げ出したからピーマンに(投句・落選)


これでもかこれでもかと炒めるピーマン


ピーマンの泣き疲れたる台所


ピーマンより出てきてどこかにいっちゃった







◇割る


割り箸があって動揺する飯屋


たわむれに巨人が割ったあとの山(投句・落選)


よろこんで割り込む恋の七並べ(投句・落選)


独身の太めの彼が割る卵


火曜日の暗室にある壁の割れ



◇品


上品な亀にいろめき立つ国か


部屋中に海からの品々を置く(投句・平入選)


永劫にウルトラマンに遺品なし(投句・平入選)


どうしようもなく一人がこわい品川区


品物の私を売って生きてゆけ

   以上です。

枡野浩一・杉田脇士『歌 ロングロングショートソングロング』の感想

◇「本」とは、ドキュメンタリーである。

◇気の利いた言い方をしようとしている。気が利かないより利いたほうが、
 なんとなく感じがいいような気がするから。でも本当はそんなことを
 誰も強要しているわけでもない。でもこのごろよく耳にするあの「空気読めよ」
 という言葉は、何なのだろう。この前は電車の中で、学校の遠足らしい集団で
 男の若い先生が、男の子に向けて言っていた。「お前、空気読めよー」。
 小学生から空気読めなきゃだめなの?
 じゃ幼稚園児は?

枡野浩一の新著『歌 ロングロングショートソングロング』はとても綺麗な本だ。
 短歌や詩篇に写真をつけて刊行するのは、どこか人に「あざとさ」を
 感じさせるところがある。
 もともとわかりにくいもの-ハードなものを写真でソフトに見せる、
 という感じがするからか。
 それとも短歌や詩が持っている圧縮性や断片性から生じる物理的な原稿の量の
 少なさを、写真で水増ししようとさせているように見えるからか。
 それでもこの本は綺麗だ。
 LPレコードとEPレコードの中間の大きさのようなジャケットの感覚がある。

◇短歌は70首。一般の歌集の歌数から考えるとこれは少ない。
 実際にページをめくってみるとそんな感じはほとんどしない。
 枡野はあるイベントで「僕みたいな短歌は少し頭がいい子なら、
 誰でも書けちゃうんですよ」と言っていた。
 それに対する私の答えは、「でも(他の人が書いても)一線はこえないですよね」
 というものであった。
 今その「一線」を言葉にしようと思うのだが、なかなかそれができない。
 その「一線」が韻律によるものであることは確かなのだが、
 誰でも書けそうな言葉のつながりがどうしてその人にしか書けないような
 「調べ」や言葉の質感を持つのかは、それなりに解き明かせない美しい
 なぞなぞのひとつなのだ。
 杉田脇士の写真も、実はこれに似ている。
 杉田の写真は主に「街」の写真だ。
 光線はやわらかく、デジタルカメラ(だと思うのだが)による周縁の歪を
 さほど神経質に直そうとはしていないものもままある。
 音楽のまったく流れないロードムービーのような写真たちは、
 近接していながら離れているような被写体たちを映し出している。
 「やさしさとは距離感である」といったのはかつての三浦雅士だった。
 それは確かに枡野浩一の短歌と響き合っている。

◇本書には、「歌について」という枡野浩一の本書の出来上がるプロセスを
 綴った文章、杉田脇士の「枡野浩一さんからの手紙」という少し長めの
 枡野浩一と自分の現在までの関わりや作品への思いを綴った文章、そして
 枡野自身による「覚え書き」の3つの文章が巻末に載っている。
 本は、当たり前だが、人の手で作られる。
 読者である私は、出来上がったものを手に取るだけ。
 しかしまた当たり前だが、作ったものには作られるまでや作りつつあった
 ときの様々なプロセスがあって、枡野はいつも自著について、「それごと」
 出来る限り読者に手渡そうとしているように私には思える。
 「時間」の詰まっている本は、その分だけあたたかい。
 私の地元の京都の書店をまわってもなかなか店頭で本書を見つけることを
 できなかったが、ふと手にとった人が財布と相談しながら、
 一冊一冊買っていくような光景があれば、それがとても似合うような
 本だと思う。

 洋書一冊贖わんかな  片耳を街路からくる微風に打たせ

                    正岡 豊

 そんな歌を昔書いた。
 でも洋書を買ったことなんかなかったような気がする。

◇最後にいくつか本書の歌を引いておく。
 瀬尾育生が銀色夏生について書いた文章を、かすかに頭のどこかに
 思い浮かべながら。


*法律で裁かれている友達を法のすきまでゆるしていたい

*心から愛を信じていたなんで思い出しても夢のようです

*嘘つきになろうと思う  嘘をつく世界のことを愛するために


   (『歌 ロングロングショートソングロング』雷鳥社 本体1600円+税)
 

永井祐歌集『日本の中でたのしく暮らす』の感想

◇永井祐さんから歌集をおくってもらって私はとても楽しく読んだ。

◇遠い昔の『別冊マーガレット』に載っていたマンガで(たぶん大谷博子の作では
 ないかと思うのだが、さすがにもうそこまでは覚えていない)、満員電車の中で
 気分が悪くなってきた主人公の女の子が、車中で流れてきた口笛(!)になんと
 なく癒されて少し気分がよくなる、というのではじまるものがあった。
 はあ、と思うのは今なら混んでる電車の中で口笛を吹くというのは少しばかり異
 常な行為で、(何この人?)とおもわれるには違いないからである。
 しかし永井の歌のひとつのモチーフが「圧迫の緩和」であることは間違いないと
 思う。ただし、永井の書いているのは「短歌」なのだから、「圧迫の緩和」そのもの
 ではなく、「圧迫の緩和の短歌化」がそこでは最重要事項となる。
 そこで大切になるのは、たぶん「射程」と「選択」が同一視されるような場所から
 言葉を紡ぎだすことではないか。


 *映画館の座席の肘を握りしめ散る満開の桜を想う   p25

 *カップルが映画の前売券をえらぶガラスケースを抜けゆく西陽   p44

 *サクサクとポッキーを食べながらみる映画の中の信号無視   p54


 ここで永井が歌っているのはジャンルとしての「映画」ではないと私は思う。
 自分が自分である、あるいはその人がその人であることの「要素」のひとつとして、
 会話の中で、消費される、いや「消費」というような単語を使うことすらおこがましい
 雑貨の亜種ともいえる、(しかしそれはそれでかけがえがない、ということもまた大事なことだ)
 「映画」であり、それはかなり話題になっていたとしてもあっという間に劇場公開が
 終わってしまう気がするようなここ数年の「映画」の感覚とよく合っているように
 私は思える。
 「映画」に酔うのではなくむしろお金と時間をかけていながら微妙に疎外されること、
 そしてまた疎外されることによりまた微妙にやすらぐような感覚が、山型の韻律の曲線を
 持つそれぞれの歌の調べとともに、読者に手渡しされているようである。


◇短歌とは何か。
 今端的に言えば、私にとってそれは「ひとつの美学」である。
 一人の人間が「短歌」を選択する。
 しかしその人間はその前に「言葉」を選択しているし、その前に「生きる」ことを
 選択しているし、希望するしないにかかわらず生まれ合わせたその自らの生存の時代や
 世界や生国を放棄することなく「選択」している。
 また人間としての自分と自分以外の人間の関係をも選択している。
 その取捨選択に「どうしてもこれだけは譲れない」という一線を貫くこと、私はそれを
 「ひとつの美学」と呼ぶ。
 美学だからあんまりお金にならなかったりするのかも知れないし
 (うがっていえば権力に弱かったりもするのだが)、それはともかく、
 永井の選択意識のしなやかな強さを私はとても好もしく、またおもしろく読んだ。


 *やせた中年女性が電車で読んでいるA5版の漫画のカバーなし  p41


 *ベルトに顔をつけたままエスカレーターをのぼってゆく女の子 またね  p42


 *缶コーヒーのポイントシールを携帯に貼りながら君がしゃべり続ける  p56


 ああ、缶コーヒーのポイントシール!
 カバーなしの漫画!
 永井はこういうものをこの世界から切り取って見せてくれる。
 それらにささやかな執着を寄せる人の面影と一緒に。
 それは私も自分が歌を作るときにときおり固着する「コーヒー」「カバー」「シール」といった
 「ー」の間延び感に引きつけられるという面もあるにはあるだろう。
 また、いまはなき「短歌WAVE」の新人賞の選考対談で水原紫苑が言ったように、
 『「アララギ」と「穂村弘」』というものあるだろう。
 (とはいえ、新人賞候補作のなかで穂村・水原がネガティブな感想を寄せている短歌作品は
  それなりに捨てられている)
 しかし私はこれはこれで「ひとつの美学」だと間違いなく思う。
 あとはそれが、「ひとつの美学」だとまっとうに認識されるかという「戦い」の問題になる。
 それはどんなに親しい「友」がいたりしても、結構孤独な戦いになる。

◇いまさらいうまでもないが、そういう意味では、永井の歌も、枡野浩一などと同じく、
 「男歌」の世界なのである。わざわざそう書くのは、現在のエロスの歌の微妙なうまくゆかなさ
 をいったい誰が引き受けてゆくのか、現在の歌壇やその状況にかなりうとい私でも、
 少し危惧しているからである。(信じてもらえないかもしれないけれどもたぶんほんとに
 している。)
 ということで、「選択」意識の強度は十分に楽しめたので、第一歌集以降は、そのあたりの
 突破口を見せてもらえれば私はうれしい。
 あと、短くてもいいから、やはり歌集には「後書」のたぐいは何かあったほうがいいと思う。
 いくつか付箋をはった歌を最後に引いておく。


 *鼻をすすってライターつけるおいしいなタバコってと思って上を向く  p57

 *交差点にお昼の日ざし もらっとけばよかった割引券思い出す  p61

 *ある駅の あるブックオフ あの前を しゃべりながら誰かと歩きたい  p87



                                正岡