「自己の利害」/「共有の報酬」


◇いただいた本


*第二次「未定」87号


 「座談会:現代俳句・現代短歌・現代詩の動向と諸問題」というのが掲載されていて、
 これが結構おもしろかった。
 出席者は江田浩司・久谷雉・高原耕治・滝口浩・西口昌伸の五人と、司会に玉川満である。
  俳句誌の「未定」でこういう各ジャンルを集めての座談会は珍しいし、
 特に話がかみ合って新鮮な問題や話題が噴出しているとかいうのではないのだが、
 冒頭の江田の短歌の現状分析からして私には興味深かった。
  過去を振り返りながら最近の若い歌人について話す、という言い方で、
 江田は、現在の若い歌人がニューウエーブに批判的な歌人と、ニューウエーブから
 短歌を学び、それを継承したポストニューウエーブの世代に分裂していく、と話す。
  どこも新しいとこがないではないか、というかも知れないが、こうしたすっきり
 した二極分化は、つまりニューウエーブといういまだに運動とも世代とも説明されにくい
 一時代が、後続の世代の影響の中心にあるという断定によると私には思える。
  つまりニューウエーブに批判的な歌人も、ポストニューウエーブ派(と呼ぶのは
 暫定的なものであって、どこからどこまでと区切るつもりはない)も同じようなもの
 だと言ってるように感じられるということである。
  そう考えるなら、「ダーツ」において仙波龍英に関する肯定的な論考が掲載された
 りしたことも納得がゆく。
  私自身は、ニューウエーブという時代にはいる少し前、今よりはるかに前衛短歌、
 なかんずく塚本邦雄の文体の影響が、壮年若手の男性歌人にまだまだ顕著であり、
 顕著であることはそれはそれでそう悪いものではなかった時代を、自分の「故郷」
 のように今も感じている。
  目の前に「人生」と「青春」の二枚の札があるときに、迷いつつ、また苦笑しながら、
 先のことを思いやることの大切さを知りつつも、「青春」の札をとってしまうような、
 そんな歌詠みたちの顔ぶれだったと思う。
  そしてその「青春」の札が役立たずになっていくとともに、それぞれの歌詠みたちも
 やがて短歌の舞台からいなくなっていくほかはなかった、といえばあまりにロマンチック
 過ぎるのはわかっているけれど、それは結構笑いをともなったロマンチズムだったと
 私は思っている。
  役立たずになっていくというようなことが許されないように感じられる今の時代の方が、
 私の感覚ではきつい時代のように思える。
  さて、江田の発言に戻れば、彼は、ニューウエーブの批判か継承か、という問題は今後
 の歌壇の動静を確実に左右すると思われます、と語り、そこから本質的な相互批評がなされた
 ときに、短歌は新たなステージを迎えるが、現在そのような状況が訪れる気配はない、
 とくくる。
  ここで江田は「自己の利害」という私には多少魅惑的なものを遠因のひとつとして出して
 くるのだが、そのことについてはまたの機会に。
  先にも書いたように、どこも新しい分析ではないじゃないか、という人もいるのだろうし、
 座談会での発言という性質上、個々のそれこそ若い歌人たちに関する作品をあげての言及が
 まったくないというのもあるけれど、(個人的には枡野浩一という歌人はこの批判−継承の
 グループに江田の考えの中でははいっているのかが聞いてみたい)
 形なきかに見える現在の短歌の輪郭をおぼろげに描きあげているように私には思えた。
  ただ『カバン』は正確に『かばん』とひらがなで表記してほしかった。
  現代詩の久谷雉の話は、こういった江田の発言と交錯しているわけではないが、それこそ
 そうそう詩と短歌の狭間がたやすく埋まるわけでもないから、それはそれでいいと私は思う。
 久谷本人が、斎藤倫と三角みづ紀と小笠原鳥類を一つのものさしで評価するって発想自体が
 狂っている、というのと同じことだ。
  久谷は現代詩の書き手にありがちな難解な語彙の壁をはりめぐらすように語るタイプの詩
 人ではないから、それなりに現在の詩の潮流の中にいる書き手の「気分」のようなものを代弁
 しているように私には思えた。
  発言の中で久谷は現在の「現代詩手帖」の平明なものも難解なものも網羅しようとする方針
 を過去の同誌と比較して否定的に述べている。
  弁護する気はさらさらないのだが、それでも去年の12月号の年間アンソロジーは、毎年見て
 いるわけではない私にも、少し選をする「目」が、いい方向に変わっているように思えるのだ
 がどうだろうか。(雑誌の総ページからすると意外と少ない台割なのだが)
  「現代詩」が「現代詩」だけではやっていけない、(短歌や俳句をとりあげるとかいうこと
 ではなく)さりとてそのことに性急な切実さで対応しようとはしない、少しゆるやかな、しかし
 クールな視線を私は感じてしまうのだが。
  あと在庫と負債をかかえて思潮社が倒れるわけにもいかない、という立場も。
  どうして安川奈緒の詩に赤井秀和が出てこなくてはいけないのか、それは赤井秀和が出てこ
 ないと「やっていけない」からじゃないのかな?
  短歌の話が11月号から継続するかと思った瀬尾の時評は、あっさり詩のことに話題が変わっ
 て個人的には脱力したけれどもさ。
  最後に俳句の問題では、山中智恵子作品をめぐっての江田・高原のやりとりに私はこころ惹
 かれるものがあった。
  要約出来るような流れの話ではないが、言葉と「私」との同定関係の謎を短歌形式で解いて
 いくというのが、短歌に関わっている江田さんの基本的な姿勢で、そういう点は俳句形式も同
 じだ、と高原は江田に語りかける。そして、言葉と存在の従来の関係性を根こそぎ変革してし
 まうような<楔>を表現に打ち込む、いやそういう<楔>が打ち込まれて初めて表現とか形式が
 成立し、しかもそれを共有できるというような事態が出現してほしい、と続ける。
  関心をもたれた方は出来れば本誌にあたって本文を見てほしいが、高原の言葉の流れに、
 見慣れた性急な文学的ロマンチズムではないものを私は感じる部分があるのだが。
  現実、としては私たちは現在書かれている作品と出会う他はなく、それ以外の作品、などは
 どこにもない。
  だとしても、短絡でも、性急でもない、望みをもつ「こころ」や「からだ」は、それごと、
 今書かれある以上の、「作品」に出会うのではあるまいか。
  と卒業式の校長先生のような一文をおいて、この文を終える私であった。まる。


◇あとこれとは全然関係ないけど近松門左衛門の「浦島年代記」ってあほみたいで
 おもろいな!
 高山れおなさんはチェック済みなのかなー。

「ジョン・ゾーンが騒ぐだけのことはある!」


◇買った本


*『麦踏みクーツェ』 いしいしんじ 理論社
*『となり町戦争』 三崎亜記  集英社
*『スポーツ解体新書』  玉木正之  朝日文庫
*『インストール』  綿矢りさ  河出文庫
*『ニッポンの舞台裏』 吉田司  洋泉社
*「現代短歌雁」52号  2002/5 雁書館
*「短歌研究」  1991/7  短歌研究社
*「現代思想」 特集・出産 1990/6 青土社
*「無限−詩と詩論」 25号 政治公論社『無限』編集部
*「短歌」 2007/12  角川学芸出版


◇買ったCD


*「ベートーヴェン/大公トリオ他」 スーク・トリオ DENON
*「フランスの弦楽四重奏団/ミヨー弦楽四重奏曲第二番他」 
  クレットリ弦楽四重奏団   新星堂


◇いただいた本


*「弦」 創刊号  弦短歌会
*『猫とピストル』  萩原健之  ブックパーク


◇もう少し何か買ったと思うけど忘れてしまった・・・。


◇このごろ何を考えていたかというと、ずっと「対人関係のリアリティ」
 ということを考えていた。
 現在の短歌の読解において「リアリティ−実感がある」という感想がもたらされると
 したら、そこにあるのは「対人関係のリアリティ」なのではないか。
 (リアリティを「実感」と等しく扱うことの詳細や疑義についてはひとまず置く)
 しかし、この場合「対人関係」というのはいわゆる人間関係のこととは
 少し違うニュアンスがある。日本語における「私」というのは、「あなた」の「あなた」
 だという感覚とも異なる。
 別に論を立てて他人を「説得」したいわけではないので、作品を引用して論を補強はしない。
 ざっと書いていくが、今私が言う「対人関係」における「人」というのは、
 その人その人によって異なる「立場」や「人格」ではなく、「所属」を根拠にしているところの
 「人」であるように私には思える。「母」「母」として「母」という母集団なり概念なり習俗に
 依拠した存在であり、父も子も「作者」もまたしかりではないのか。
 そう考えると、現在の短歌のリアリティというのは、「所属のリアリティ」ということになるのでは
 ないか。


◇本棚の奥にあった、山崎豊子の『二つの祖国』を通読した。
 これはこれで私はおもしろく読んだ。この小説の主人公は、アメリカ移民の父を持つ日系二世の
 青年で、舞台は太平洋戦争の中期のアメリカから、戦後の日本である。
 主人公は、物語の過程で、米国の日本語語学兵として米国軍の兵士として戦場に出る。
 血を分けた弟は、開戦前から父の意志によって、日本へ帰国して教育を受けていたため、
 日本軍の兵士として、出兵する。
 その二人がルソン島の戦役において、戦場で出会って、兄の主人公は弟の足を撃ってしまう。
 要約すると偶然が過ぎるようになるがそれは小説の素材の持つ限界だと思ったほうが良いと私は感じる。
 それはそれとして、戦場でこのように兄弟が別の国家に所属することの葛藤が発生するとしても、
 それは「所属」の問題である。
 もちろん、「所属」というのは生易しい桎梏ではなく、人間なら人間の生の奥深くまで染み込み、
 内側から生を支配し、数々の選択においてその人間を導いたり自己処罰の牢獄に陥れたりするもので、
 それ自体は善でもなければ悪でもなく、価値でもなければ負価値でもない。
 それ自体は、である。
 しかしハンバーグの素材をいちいち、これは牛肉、これはつなぎの小麦粉などといちいち分離して
 味わうことなど不可能なように、「所属」を対象化して取り出すことなど不可能ではある。
 小説自体は、主人公がこのあと東京裁判の通訳モニターとして裁判そのものの判決の翻訳過程にまで
 深く関係したのち、葛藤に耐えきれず、または葛藤そのものとの対決の結果として、自死を選ぶ、
 という結末をもって終わる。
 それはもちろん、小説だから、完結するためには終わらなければいけない。
 話を詩や短歌に移せば、詩歌の場合は完結は必要あるまい。
 ディミヌエンド
 または、終わりなき終わり、がそこにあればいいわけである。


◇図書館に行って、「短歌」連載の小高賢による岡井隆聞き書きを通読した。
 「短歌研究」の恒例の年鑑回顧の座談会も読んだ。
 昔と違って、岡井の短歌の諸作の背景が、その真偽の度合いの完全さはいざ知らず、
 明らかになるにつれ、(明らかになっていくような気が確かになるようにつれ、と
 言い換えてもいいが)「あれ」はなんだったのだろう、という気がわいてくる。
 「あれ」というのは、つまりは私−正岡の中の物語、岡井の主に『天河庭園集』あたり
 までの短歌作品に対する勝手な「思い入れ」といってよい。
 男性の短歌作品というのは、無意識のうちに読者を「青年」「壮年」「老年」の三つに
 読者をカテゴライズして書かれるものだろう、という感覚が私には漠然としてだが、ある。
 女性の短歌作者の場合は、そういう年齢論ではなく、「女性」「深淵」「鬼門」という三つの
 カテゴリーを無意識に自分の読者として選別しているように私には思える。
 女性の短歌作者の場合はひとまず置く。
 あ、書いてたら12時まわってしまった。
 話のモードを変えてひとまず、この話の終わりへ、記述を進めることにする。
 その前に先の女性の短歌作者について言えば、花山多佳子はもちろん「鬼門」の人である。
 カテゴライズが一番不明なのは、あるいはその三つにまたがっているように思えるのは、
 小池純代である。


 かまくらの昔みたいなしあはせがほしいの でなきやほしくはないの
         「輪舞曲口説」 小池純代  「短歌研究/1991/7」


◇「現代思想」の1990年6月号というのは私が短歌をやめたころの本で、
 そういう意味では現在からは近時代性もくそもあったものではないのだが、
 それでも特集中の落合恵美子の「胎児は誰のものなのか−避妊と堕胎の歴史から」
 と題されたインタビュー中の次の箇所には、なんとなく虚をつかれた感じがした。


  落合−
 「では本当はどうなんだろうというと、本当はというのはないのです。社会で決められて
  共有された感じ方があるだけです。妊婦もそれに沿って内観を解釈するのでしょう。
   感覚として、胎児に他者を感じるけれども、しかしそれが本当に他者かどうかはあく
  までも社会の約束事なのです。さっきもいったように、生まれてから数日間は他者では
  ない、人間ではないとして社会を運営することも可能です。ただどこからどこまでが人
  間だということを約束しないでは社会が成り立たない。」


 「妊婦」を短歌作者、「胎児」を短歌、「新生児」を発表された短歌作品、などと置き換えて
 みるわけだ。そういうアナロジーを人に強要しようというわけではない。
 しかし。それはともかく。まあそれはそれとして。
 「本当は」というのは「ない」のだとしたら、すべては・・・虚妄?


 すべて大きな虚妄だつたと気付くころ深い批評が出はじめてゐた
           『<テロリズム>以降の感想/草の雨』 岡井隆(全歌集P751)


 「三首目(正岡註=文脈によれば上記の歌のこと)については、具体的なことは今のところ
  私にはわからない。」
           「現代短歌雁52号・岡井隆の近年の時事詠について/大島史洋」

矛盾に耐える情熱


◇買った本


*『天使が通る』 浅田彰島田雅彦            新潮文庫
*『ミュージック捜査線』 ピーター・バラカン       新潮文庫
*「音楽の手帖・ベートーヴェン」             青土社
*『御緩漫玉日記 一巻』 桜玉吉             エンターブレイン
*『豪華版・日本文学全集・第六巻/古典詩歌集』      河出書房新社
*『池田大作全集・第105巻』 M・ゴルバチョフ池田大作  聖教新聞社


◇いただいた本


*『幸彦幻景』    攝津資子  スタジオエッヂ
*「逸」23号     花森こま個人誌


◇読んだ(というか目を通したというか)本


*『海辺のカフカ』  村上春樹  新潮文庫
*『石田徹也遺作集』 石田徹也  求龍堂
*『音速平和』    水無田気流 思潮社


◇郵便受けに黄色い書籍用の厚紙のものがはいっていて、あ、やっと
 セレクションの次のやつが出たのかな、と思ったら、
 攝津さんの奥さんが書いた、上記の本であった。
 山崎十死生さんの「紫」に連載された、故・攝津幸彦の生前の思い出を
 書きつづったもので、知らないところは興味深く、一度切りだが私が会ってからのことは
 それなりになるほどと思い、書を読み進めていただかせた。
 とはいえ、会ったといっても本書にも書かれている「安井浩司を囲む会」の二次会の喫茶店
 で、何かひとこと言われただけのことだが。
 私なんぞは坪内さんの「現代俳句」がまだ梅田の紀伊国屋で売っていたころにそういった
 ものを読み始めているし、結果として『鳥子』から最後の句集までは句集の形で
 読んだことがあるわけだが、そういう「古い」読者でない人には、「近寄りがたい孤高の
 俳人」というよりは、人間・攝津幸彦というのがよく描かれていていい本だと思う。
 それでも、本書を見てもそうなのだが、坪内捻典の名は何回も出てきても、1980年から
 1990年なかばにかけてにおいても、夏石番矢も林桂の名も出てこないのは、
 攝津の俳人としての軌道が、それらの俳人とは少しまた違うところを走って
 いたということだろう。
 また昔の話かよ、と言われるのだが、坪内・林・夏石らの第一評論集は、
 若い私にはまぶしくて、かっこよくて、俳句はこれから
 そうしたやわらかい文体が存在論的な光芒を放ちながら、天空へ立ち上る二重螺旋の
 軌跡をえがいてゆくのだと思わせるに充分なものだった。
 今はさながらインドの新興IT都市のように、バラックと巨大企業が併存するような
 「俳句都市」の時代になっていて、それは悲しくはないけれど、
 こんなはずだったかなあ、とそれこそ首を鸚鵡のようにいぶかしんでしまうしまうのである。


水無田気流の『音速平和』にはまいった。
 私はたとえば小池昌代の詩が、どうも好きになれない。
 好きにならなくてもその世評の高さが理解できるように表現の高さがわかれば
 それでいいのだが、どうもそれすらもわからない。
 関口涼子は、詩がわかるというわけではないが、活字が印刷されている紙面から
 浮かび上がる白い光の中に、かすかな女性性と生きるてざわりのようなものが、
 ものすごく丁寧に縫製されたドレスを見るように感じ取られる。
 倉田比羽子は、わからない詩も多いが、『夏の地名』の最後にはいっている
 「スーパーオリンピアからはじまる」という詩はこれもまた
 スーパーオリンピア以外のどこにはじまりがあるというのか、という
 地中海的な光源を詩の背後に感じてしまう私のフェイバリットである。
 三角みず紀をまったくおもしろいと思えないのは、上記のような感想を
 読んでもらえれば言うまでもあるまい。
 しかし水無田の『音速平和』の一編目、「電球体」にはまいった。
 高いのは「テンション」ではなく「トーン」である。
 あきらかに、今書かれている多くの詩がもつ声の低さや野太さとは違う、
 ものすごくソリッドな図々しさとでも言いたくなる「声の高さ」が、
 その一編の詩を支配している。
 しかし、詩の言葉自体は、さほど難解な言語や言い回しを用いているわけではない。
 和合亮一のほうがはるかに長く、わかりにくい。
 ひとつには、水無田のカタカナの使用法であろう。
 「CPU周波数速度」を「シイピイユウシュウハスウソクド」と書き換えるとき、
 そこにあるのは見慣れた「転調」でも「諧謔」でもなく、
 「私たちがほんとうにそう言っている発音のたどたどしさ」や「人間の声とも
 鳥の声とも機械の声」とも聞き分けがたい幾重にもフィルターをかけられた
 (ということは幾重にも「お金」をかけられた)
 「声」が、書き表されているのである。
 というような詩人が出てきた−現代詩手帖賞を受賞したのは2003年のことだそうで、
 2003年というのは「短歌ヴァーサス」の創刊号が出た年だったりする。
 なるほどね・・・。
 本書自体は2005年の出版で、私も集中の一編「金魚日」は何かで読んだ記憶が
 あるのだが、本書の白眉はやはり冒頭の数編にあるのではないか。
 しかしあえてケチをつけるわけではないのだが、
 詩集自体を読み進めていくと途中からは退屈になってゆく。
 藤井貞和の『神の仔犬』にあるような「低い声」が持つ「告発の物語」に、
 どちらかと言えば古い詩の読者の私が慣れきっていて、
 彼女の詩集にはそれがほとんどないからだろう。
 固まり、として読まなければいけないものを擬似的に通過しながら読めば、
 そりゃあなた、退屈ですよ。
 イメージの高層建築と、ファンドがファンドを生む金銭巨大都市の上空で、
 何かよくわからない食べ物をぱくつきながら、ひらりと飛び移る詩の作者の姿。
 人称としてまさしくそれでしかありえない「私」の姿。
 が提示されている、という点では、先頃読んだ中尾太一よりも
 こちらのほうが新しい、という感じがする。
 そうは言うが男性の詩というのはあれはあれで牢獄みたいなモノデスヨネ、
 とこの作者なら言うだろうか。
 まあどちらでもよいけれど、それなりに近刊の第二詩集に期待値の分銅を載せてしまう
 ワタシですね。


◇『御緩漫玉日記・第一巻』より名セリフと思ったもの。



 「先生、こんな怪しい柄ばかりでなくて
  定番の61〜65番と砂目なんかをまとめて買っといて
  くれると助かります私」
               (052頁)

   (そうだ! そうだ! もっともだ! −正岡)


 「この世に処女や童貞がいることなどすっかり忘れていた。」
               (063頁)


   (うんうん。おれもときおり忘れている。 −正岡)


 どうでもいいけどこの本も2005年が初版です。どうでもいいけどね・・・。


◇『海辺のカフカ』にベートーヴェンの「大公三重奏曲」というのが出てきて、
 青土社ベートーヴェンの本にも星新一がその曲について書いていたので
 古い本だけどつい手に。キトラ文庫の日曜ワゴンで・・・。
 さすがに近所のCDショップではその曲のCDはみつからず。
 聞いたらつまんないかも知れないけれど、ちょっと聞いてはみたいなあ。

これは先生、お厳しい

◇むかしむかしあるところに、勇気のある男の子がいました。
 勇気というものはだいたいにおいて、本当のことをさがすために
 あるものですが、その男の子のもちあわせた勇気もごたぶんにもれず、
 たいがいは本当のことをさがすために使われました。
 それが良いことだったか悪いことだったかは、神様のみぞ知る、
 というところですが、案の定その男の子は、ほかのひとよりも
 たくさんの本当のことを知りましたし、その中にはもちろん、
 孤独がふくまれていました。


     『谷川俊太郎<<詩>>を読む』収録
      「研究をまとめるための小品−『コカコーラ・レッスン』」
                      安井たま子 より


◇堀井が死んだとき、今後十年、堀井を凌駕する才能は出てこないだろうと
 追悼文を書いたが、少なくともこの二十三年間に限ってみても、私の予言は
 当たったといわざるをえない。期待を持たせた俳人
 河原枇杷男、鷹羽狩行、上田五千石がいた。だがそれは儚い夢として終わった。
 五千石は第一句集『田園』以後、まるでポーの『メールストロームの渦』の主人公のように
 一夜にして白髪の若年寄りとなり、鷹羽も第一句集『誕生』以降、新ホトトギス調というか
 無感動俳句の量産俳人となってしまった。枇杷男も同じだ。ある日を境いに緊張感を喪失し、
 自己模倣を反復するようになった。


     「俳句四季」1999/10 シリーズ夭折の詩人9/堀井春一郎
        「つばくらからの弾劾」 齋藤慎爾  より


◇塚本メモ2

*柔道三段望月兵衛(もちづきひやうゑ)明眸にして皓齒(かうし)一枚を缺きたり

         『歌人

 このメモでは「歌人」以降の塚本邦雄、というのを考えて行く。
 掲出歌は歌集二首目。個人名を用いた歌はいくつかあるわけだが、


*瑠璃懸巣飛んで散亂 今日めとる青年團長五十嵐正午(いがらししやうご)
 『天變の書』

*裸祭の花崎遼太處女座(をとめざ)のうまれ死にたいほどはづかしい
 『不變律』

 どこかに余裕のようなものを感じさせずにはおかない。
 塚本の中には、

 自転車に乗りたる少年坂くだる胸に水持つ金森光太/葛原妙子

の歌があったと思われるが、葛原のあやうい一回性とは逆に、塚本の歌の中には
近代自然主義小説のようなディレッタント性が濃厚になる。掲出歌も、「明眸皓齒」
という四字熟語をもどいているわけで、それが長輿義郎が書く垢抜けない書生の描写のような
印象を与える。しかしこれも作者塚本邦雄に一首の壮年者のイメージをかぶせるからで、
作者を若年に受け取ると、同年代同性への観察的詠草に見えなくもない。
余裕とともにちょっとした非達成感が感じられるのは、色彩感にとぼしいからか。

 柔道三段望月兵衛 さざんかを折りとれば神々の露払ひ
 柔道三段望月兵衛 燦々と学生服の裏地の白虎
 柔道三段望月兵衛 酒は火か 風は伽藍か たたなづく夜に

などといじってみたくなる。何度も読んでいると、マンガの「柔道一直線」を思い出して
ばかばかしくなってくる。「帯をギュっとね!」以降の歌としては、弱いのかも知れない。
さすがに岩波現代短歌辞典には「柔道」の項目はない。

                  GREE日記(5) 2005/12/09 13:19 正岡豊 より




◇かれの作品に形象化された複雑で怪奇にすら見える家族関係、剥き出しにされた
 エゴイズム、小説的に暗い過去、奇妙な少年時代、それらの環境に傷つけられた
 少年の魂の悲鳴、それにおしまげられ自己嗜虐症化されてあらわれる青年の心理、
 こういうものは土屋文明先生がかつて一度手をつけたが、それよりもっと生々しく
 多様な姿をとつて出てきている。たとえば


   なよなよと女のごとくわれありき油断させて人をあざむきにけり


   教養あるかの一群に会はむとすためらはずゆき道化の役をつとめむ


   わが父にくびりころされし亡霊がいつしかわれの重荷となりぬ


   面当に死んでやれとわが行きし川に泳ぎつかれ飢じくなればかえりぬ


   血をわけしはこの姉一人とぞ感傷してその度に金を捲きあげられぬ


   又無心かとこころ沈みぬ鮒さげてにやにや笑ひ来たりし義兄に



 等々、ちよつとそこから引つぱり出しても従来の短歌にはなかつた世界がくり
 ひろげられている。


           『指紋』 中島栄一歌集 (筑摩書房「現代短歌全集」版)
              序  杉浦明平 より


◇冬の橋きれいな服を着るこころ


 木星や卵焼き器を洗いつつ


 冬の雨白鳥に似し弦楽器


 さざんかや月星シューズ売る夜店


 そこまでをおくると言えば冬の星


 帰り花きみと別れてよりは見ず


 柿落葉手帳の最後は年齢表


 冬紅葉下手に出ざる利休にも


 冬紅葉眼科医の恋、象の愛


 手袋や幸彦問いし季重なり


 殺してはならぬ兎を今日も抱く


 ソノシートああ誰がために冬は来る


 忘れめや月の輪熊と古今集


 ベテルギウスにも黄金の散紅葉


                  GREE日記(3) 2005/12/07 08:19  正岡豊 より



      (対馬康子句集「愛国」を再読)


 「愛国」を座りて読みぬ秋の部屋


  死火山と火山のあわいきすげ咲く


  もろびとこぞりて歳末の百貨店


  われもまた霧に汚物を流しけり


  空にあるわが本心や夕時間


                    さっき書いた句編  正岡豊 

添削したらそこで試合終了ですよ


◇買った本


*『岡井隆と初期未来−若き歌人たちの肖像』  大辻隆弘   六花書林
*『石田徹也遺作集』  求龍堂
*『音速平和』  水無田気流  思潮社


 てくてくと三月書房へ。
 ちょっと前までと違って、あ、これ買いたいな、と思う本が
 増えた気がするのはいいことなのか、どうなのか。
 月曜社の『貧しい音楽』とかね、「あかまつ」のバックナンバーとかね。
 ちょっと買おうかなと思ってしまった。
 大辻さんの本は本日の買物のメインで、買ってからはいった喫茶店で、
 袋から出して、「まー、いい本」と手触りのよさに思わず声を出してしまった。
 で、ついさっき読み終わりました。
 ああ・・・・おもしろかった。
 もうほんとになんていうんでしょうねえ。別にこの本にめぐりあえてよかったとか、
 そういうのとも違って、夢幻の中をあちこちひきずりまわされるというかねえ。
 読んでる最中は、ああこれはクセナキスのあれよりはおもしろいけど掟ポルシェのあれよりは
 落ちるがククウレグの『薔薇の向こうに』とは同じくらいかなとかややこしい感想を
 考えてたんですが、途中からもうそういうことは全部飛んでましたね。
 一番近いものをひとつあげろと言われたら、中井英夫の『虚無への供物』の講談社文庫版ですね。
 若い頃に一度読んだだけで、今家にもないから、どこが似てるんだいったい、
 とか言われると反論しにくいんですけどね。
 中井の『とらんぷ譚』の一編のタイトルか何かに、「戦後よ、眠れ」という題かフレーズが
 ありまして、長い間のうちに私は記憶の中でそのフレーズに『虚無への供物』を重ね併せて
 いるのですけどね。
 だから、『虚無への供物』で開かれた「戦後という言説の空間」が吉本隆明の『言語にとって
 美とは何か』の「戦後表出史論」を通って、その中の扉の一部が確実にこの本で
 その「謎」が「謎」のまま閉じられたというかね。
 あれですよあれ、ほら。
 「戦後表出史の中で不気味な閃光を放った構成的時間の喪失」(吉本隆明)というやつですよ。
 『言美』探すのがめんどくさいので記憶から書いてるので間違ってるかも知れませんけどね、
 言い回しが。
 えーと説明したほうがいいのかなあ。
 本書は、同人誌「パピエ・シアン」に大辻隆弘が数年にわたって連載したもので、
 近藤芳美を中心として出発した短歌誌「未来」の「未来月報」という小冊子を契機に、
 岡井隆をメインとしながら当時の歌人たちの「歌に賭けた青春」を
 現在から可能な限り再構成しようとした、驚異の本といいますかねえ。
 中井英夫は『虚無への供物』を「ぼくでなくても誰でもあれを書けたんだ」と
 言ってるはずで、私はバカだから、文字通り受け取るんですが、
 あれは結局「犬も歩けば棒にあたるんだ」と言ってるんでしょうね。
 ただ、「棒」にあたっても全然気づかないやつもいれば、「杉の木」や「電信柱」に
 あたっているのに「これは棒だ!」とかいって興奮して勘違いしたまま突っ走るひととかね、
 そういうひとばかりだ、と。
 で、「棒」にあたってもそれからがめんどくさいわけですよ。
 とりあえずその棒に当時の中井の全身全霊をこめた書物が『虚無への供物』だったわけですね。
 あたった「棒」を限りなく引き延ばし続けているのが今の高橋源一郎ですわね。
 本書は大辻さんが、同じ同人誌の桝屋善成さんから「未来月報」のコピーをおくってもらった、
 というところからはじまります。
 これが「棒」ですね。あたったんですよ。
 もうそこからがね。
 ほんとにもうなんというかね。
 セミドキュメントというか、大辻さんは「歌人」で「一般人」でもあるわけですから、
 そのまま全身で書き続けていくというかね。
 途中で「誰それに電話をかけた」とかいって取材っぽいことをしてゆくわけですよ。
 もう次は誰にかけるんだろう、とかね。
 もう昔懐かしの「菊屋」の「お電話主義」というかね。
 最後は小島信夫の『別れる理由』の終結部みたいになったらどうしようというかね。
 「小泉純一郎に電話をかけた」とか出てきたらどうしようとかね。
 どうもしないんですけどね、別に。
 それぐらいね、スリリングなわけですよ。
 でそういうとこはちょっと文体が佐野真一っぽくなるとかね。
 そりゃあるわけですけどね。
 あるわけですけどね。
 もう、いくわけですよ。
 ぐいぐいと。
 でこう、状況というか時代というかも、昔と違って岡井さんが回想録書いたり
 あちこちで昔のことを書いたりとかしてるわけで、
 本人による三冊本の回想録が岡井さんが生きてるうちに読めるなんて、
 私は若い頃は考えたこともなかったですね。
 だからこういう一時代の追跡劇を、現在の無意識がサポートしてるというかね。
 いやだからほかの誰かに出来るかというと絶対誰にも出来ないだろうなあと
 私はこの本見て思うのですけどね。
 でこの時代と舞台がですね、「昭和28年前後の東京」なわけですよ。
 ちょっと時間はずれるだろうけど、京極夏彦の初期長編シリーズというかね。
 ああいうのがかぶさるわけですよ。
 そこにはたぶんね。
 あるんでしょうねえ、その「不気味な閃光」が。
 だからそれは魅力的でね。
 いやもうすごい本ですよこれは。
 読み終わってやっぱりね。
 「アララギ」っていうのはすごいなあ、とね。
 思いますねえ。
 「歌」の背後に現実があるというのは、私とかはそんなに意識しないところが
 あるんですよ。いやもちろんあるんですけどね。
 あるんだけれども、それはそれとして、と読んでしまいますね。
 「ぎしぎし」「フェニキス」なんて私は永田和宏の評論でしか知らないですからね。
 だからやっぱり永田和宏も元をただせばやはり「アララギ」でね
 そう考えると永田さんの第二歌集『黄金分割』というのはね。
 悲劇的な歌集なのかもねえとかね。
 いろいろ思いますなー。
 これは最後はどこで終わるのかなあと思ったら、最後の方で著者の大辻さんが実際に
 現在の東京を経巡ってね。
 もう、そのあたりに大辻さん目赤不動とかなかったんですか、とかね。
 言いたくなるくらいですよ。
 なくていいんですけどね。
 いやこういう本、豊崎由美さんとかね、現在のそうそうたるブックリスペクターの
 ひととかね。読まないのかなあ。
 確かに「短歌」からものすごい勢いで飛ばされたブーメランがね。
 またものすごい勢いで「短歌」へ戻っていくというね。
 「なんだったんだ、今のは!?」というかね。
 そういう本ではありますよ。
 そういう本ではありますけどね。
 でも「ぜつぼう」とかね。「ピカルディーの三度」とかね。「青猫亭家族展転禄」とかよりね。
 この間はじめて知りましたが伊井さんって読売文学賞もらってるんですなー。
 いやそういうのよりかはね。
 激しくおもしろかったですけどねえ私は。
 途中で『未来歌集』の評を「塔」の創刊号に高安国世が書いてるとかありましてね。
 あそれだったらうちにあるじゃんとか思ってね。
 取りに行こうと立ち上がったら足がつっちゃいましたよ。
 いやおれは森見登美彦がいいよ。とかね。桜庭でいいよ。とかね。
 あんた勝手におもしろがってろよ、幸せなやっちゃな。
 と言われたらああそうですか、とは思うんですけどね。
 うーんいやいい本でした。大辻さんお疲れさまでした。


◇『石田徹也遺作集』は2006年5月初版でこれは2007年9月28日でもう10刷めの本。
 『音速平和』は本屋の棚でははじめてみたので、つい。
 三月書房では『仙波龍英歌集』をはじめて拝見。
 買わなかったけど、許してね、宇田川くん。
 読んでるかどうか知らないし読んでくれてなくてもいいんだけどね。
 言いたいことがあればそれはそれで直接言うわけだから。
 でも装丁もいいしよく出来てるよねえあの本も。
 藤原龍一郎さんの一文も、親愛の情感とどうしようもなさを引き受けながら吐き出すような
 胸にせまってくるもののある文章です。
 80年代というのは何をやっても「時代のおもしろさ」に「自分のやってること」というのが
 負けちゃうような気がする時代だったんじゃないでしょうかね。 
 今は「時代がおもしろくない」ように見えるひとが多いので、「自分のやってること」が
 おもしろいのかどうかわからない−あるいはあんまり気にしない−ひとが多いようにも
 思えたりします。
 そのかわり他人の出してくるものがおもしろいかどうかは猛烈にランク付けするのですね。
 『貧しい音楽』だけは買ってくりゃよかったかなー。
 でも本を買いのがすこともまた人生じゃん、とか思ったりする今宵の私です。ではでは。
 

敵は船頭、船頭版

◇いただいた本


*「川柳木馬」 第114号 北村泰章追悼号


 袋から取り出して、追悼の語が目にはいった。驚いた・・・・。
 逝去は8月19日とのこと。
 北村さんに会ったのは、確実におぼえているのでは二回で、
 一回目は短詩系文学研究会「獏」の五周年か六周年の大会。
 二回目は、2000年の「川柳ジャンクション」の会場である。
 特にさほど会話があったわけではなくて、
 2000年に会ったときにすでに20年近い年月を経ていたわけだから、
 おぼえていないでしょうね、といった私の言葉に、「おぼえてますよ」
 と返されたのだった。本当におぼえていたのだと思う。
 ただそれだけのことぐらいでそんなに驚くのか、と思うひともいるだろうし、
 ていのいい感傷をこんなとこに書かないでほしい、と思うひともいるかも知れない。
 しかし、「作品としての川柳」を大きく包む「現場としての川柳」において、
 高知の地に北村泰章というひとがいる、高知商業川柳クラブというものがある、
 ということが、彼方に窓の灯りのように見えていた、
 その存在と持続に、いくばくかの、あるいは言葉に出来ないような、支えを感じていた
 川柳の作り手は少なくないはずだと私は私のいる場所から、そう思う。
 それがそんなに間違っていると、私には思えないのだが・・・・。
 同誌掲載の「北村泰章百句」より、三句を引く。



 風が甘い妻よ砂丘に登ろうか


 教え子に何を教えし雨の音


 祖母病んで私に秋の音がない



 私より若い歌の書き手や、私とは違う場所にいると思える歌の書き手について、
 (このひとは自分のいま書いているそのジャンルに対して、深い愛情を
  持っている別なひとがいる、ということが、全くわかっていないのではないか)
 と思うことが最近時折ある。
 そのひとが持たないのはそのひとの自由だけれど、他人も同じようにもっていない、
 と思うのは、そんなにいいことではない、と私は感じる。
 別にそれが詩のジャンルであれ、異性や高価なものであれ、
 「深い愛情」がもたらすものは「良い結果」ばかりとは限らない。
 だから私はそんな「愛情」はもたない。というのは、それでかまわないのだが、
 やはりこの世には自分とは「別な人」というのがいるのである。
 川柳というのは、(そしてたぶん連句も)その「川柳」というものに
 「深い愛情」を持っているひとがいる、ということが、まず、ほかのひとに
 わかってもらいにくいジャンルだと私は思う。
 川柳のことがおまえにわかってたまるか、と思うひとも
 いるとは思うのだが、これは私の「正直」な感想です。
 「作品としての川柳」「現場としての川柳」も、そして「川柳木馬」も、
 次回投句の締め切りが掲載されていることで続いてゆくようですね。
 雑誌をずっとおくってくださってありがとうございました。
 北村さんにこれが届くわけではないのはわかっていますが、
 せめてもここに書かせていただくことを許してくださるようお願いします。



◇買った本


*『谷川俊太郎<<詩>>を読む』 谷川俊太郎/田原/山田兼士/大阪芸大の学生たち 発行:澪標
*「俳句研究」1988/1月号・1997/11月号
*「短歌研究」1984/4月号・1991/11月号


 谷川俊太郎の本は、大阪芸大で行われていた谷川さんを迎えての特別講義の2003年のものに、
 山田、田原(ティアン・ユアン)、の論文やゼミの学生の文をつけくわえてまとめたもの。
 谷川の「minimaru」の雑誌発表からもう5年とはね。
 また古い雑誌を買ってますが、新しい本は明日の休みに仕入れにいこうかな、と。
 宇田川くんのとこから出てる本を買ってきます。


吉本隆明*笠原芳光の対談を通読中。
 吉本が近藤芳美が好きだ、と言っていて、あ、そうだったの、という感じ。
 あと「現代詩手帖」の6月号の吉本の一文でもそうだったが、ここでの岡井隆への評価は、
 「番犬の尻尾」や、まだ実験がたりないのでは、といっていた過去の吉本からの岡井への批評と
 くらべると、きわめて高いものになっている。
 それにかかった吉本・岡井両氏の「時間」の長さに改めて感慨を深めることおびただしい。
 「吉本よきみとおれとは闘った/しかし」のあとが「勝負は問題ではない」だったか、
 どうか、おぼえてないのがくやしかったりする。原本は手元になし。
 うーん。
 ただ、吉本隆明は、俳句に関して、(これは「俳壇」のインタビューでも言ってることだが)
 『(俳句を)「一行の詩」にしようとするのはよくない』
 というのがあって、この場合の「一行の詩」というのが誰や何をさしているのか、
 具体的にいってくれればいいのに、と思う。
 夏石番矢とか攝津幸彦とかかなあ。
 あと吉増剛造のこの対談時点での近作について、


 吉本/船頭があまりにも優秀なので山まで船が乗り上げている、そういう
    ことではないでしょうかね。


 と言ってるのは具体的にイメージすると、やっぱりおかしい(笑)。

ネットは見ているあなたが離れるそのときを

◇買った本とか


*『2ちゃんねる宣言』 井上トシユキ+神宮前org 文藝春秋
*『弟』 石原慎太郎 幻冬舎
*『思想とは何か』 吉本隆明・笠原芳光 春秋社
*「もより #04」 フォックス出版 2006/08
*「もより #05」 フォックス出版 2006/10
*「ピスケン」 脚本 マキノノゾミ 劇団M・O・P


 『2ちゃんねる宣言』は2001年12月刊と、この手の本に関しては古いものだが、
 私はそれなりにおもしろかった。
 ひとつは、2ちゃんねるの「削除人」のありかたと運用のなされかたを書いた
 ところと、もうひとつは、匿名での議論−コミュニケーションの難しさを書いたところ。
 匿名であれ、記名であれ、コミュニケーションのあるところには、そのコミュニケーション
 の「内部」というものがあるわけで、自ずから内部というのは、自然課程として、
 濃密になる。ただ、その濃密さをほんとうに感受できるのは、そのやりとりの
 当事者であって、外部の傍観者ではない。
 また匿名でもなんでも、発言・発信されたことの「確からしさ」は、
 コミュニケーションの場に放り出されたとき、「根拠は?」「出典は?」と
 問われることになる。
 そうやって、「確からしさ−情報や主張そのものの価値」は淘汰されるが、
 はたから見ているととても淘汰−短歌・俳句で言えば「選」−されているとは
 見えない場合が多い。
 それは、傍観者がその現時点に立ち会ってしまうことによる、
 視点の近接性によると思う。
 それでも、「発言そのもの」があるコミュニケートの内部を前提としないで、
 その価値を自ずから自明とするような場合がたまにある。
 あるブログのコメント欄に、「m」という匿名で書かれた、たとえば次のような部分。


 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


 短歌という世界にある自浄作用についてはわかりませんが、
 短歌を書くことには自浄作用があると思いますよ。


 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


 前後を切り離すことを「切り文」と言う場合があって、主にわざと曲解するときに
 使うのだが、私にはこの一文がひどく心に残ったので、あえてここだけ
 引用させていただく。
 私も「短歌という世界」にある自浄作用についてはあまりわからない。
 短歌・俳句というのは「くらべながら作る」ヒステリックで神経症的な詩形だ、
 とはいつか日記のどこかで書いたことで、そういう見方はネガティブではあっても
 一面は正しいはずだと思う。
 とはいえ、ポジティブな部分、あるいはポジティブな内実からの光線のようなものの、
 そのありかたを、手渡すように伝えることも難しいことだとも思う。
 この「m」さんの発言は、ブログ記事のコメントへのコメントとしてなされたもので、
 一義的にはその、レスした相手に伝われば、あるいはそのレスの相手が、読めばいいのだとは思う。
 ただ、私は匿名でこうしたコメントを書くことは、契機と、それととても「技術」が
 いることだと思う。
 こうしたコメントが書かれることが、大辻隆弘さんが言う「ネット短歌の終焉」という時代なのであれば、
 私はその時代を素直に歓迎する。


石原慎太郎の本はとりあえず読んでみたかったので。
 石原慎太郎の小説は本当は面白いんだよ、といった微妙な再評価っぽい言葉は最近時々
 見かけるような気がする。
 近年の文芸誌に載ってる石原の小説の文体は私は結構好きな方である。
 吉本・笠原対談は2006年10月刊で、そう新しくもないのだが、
 第二章の「詩歌の思想」をめくっているとついふらふらと買ってしまった。
 「古池や蛙飛び込む水の音」の句について、ロラン・バルトの解釈を笠原さんが言ったあと、


 吉本/いやそれはよくそんなことまで解釈したもんだなと感心もするけど、
    屁理屈だと思います。だってこれはちっともいい句じゃないよ(笑)。


 とか言ってます。うーん。
 「もより」というのは、「情報基地アキバより届けキミに、この電波!?」というキャプションが
 表紙に書いてあるような、それっぽい大判のムックで、初めてみたもので買ってみました。
 エロ漫画でもエロゲームでもいいですが、そういうものの中で描かれる「女性」というものは、
 一種の「指人形性」を帯びているのではないか、というのが最近の考え。
 誰かもう言ってるか。
 欲望を発するほうの男性が、内側から操作しているように見えるときに、結構そういう趣味の
 人に受けるのでは。
 昔の演劇関係のビデオは安いとときたま買ってしまいます。マキノさんのは1992年作品。


◇読んだ本


*『山毛欅林と創造』  安井浩司  沖積舎



 頂いていたのですがようやくいまごろ読みました。
 いいな、と思った句をいくつか。




 亀を貫く光線もまた初夏の庭


 樫に吊られて假面ずれたる冬男


 向こうより形なきトンボ来たる浜


 心字池ほとりに花蜂酔死して


 花の湖(うみ)男人魚でいいんだよ


 遠近にみな抱き合うて燃える野火


 夷(えびす)草ガラスのかまきり垂れおらん


 一人右に多くは左に斃るつゆくさ


 首の袋に銅銭入れると歩む夏牛


 娶らんや花じゅんさいの異郷より



 最初の句がいいですな。ガメラっぽくって。