添削したらそこで試合終了ですよ


◇買った本


*『岡井隆と初期未来−若き歌人たちの肖像』  大辻隆弘   六花書林
*『石田徹也遺作集』  求龍堂
*『音速平和』  水無田気流  思潮社


 てくてくと三月書房へ。
 ちょっと前までと違って、あ、これ買いたいな、と思う本が
 増えた気がするのはいいことなのか、どうなのか。
 月曜社の『貧しい音楽』とかね、「あかまつ」のバックナンバーとかね。
 ちょっと買おうかなと思ってしまった。
 大辻さんの本は本日の買物のメインで、買ってからはいった喫茶店で、
 袋から出して、「まー、いい本」と手触りのよさに思わず声を出してしまった。
 で、ついさっき読み終わりました。
 ああ・・・・おもしろかった。
 もうほんとになんていうんでしょうねえ。別にこの本にめぐりあえてよかったとか、
 そういうのとも違って、夢幻の中をあちこちひきずりまわされるというかねえ。
 読んでる最中は、ああこれはクセナキスのあれよりはおもしろいけど掟ポルシェのあれよりは
 落ちるがククウレグの『薔薇の向こうに』とは同じくらいかなとかややこしい感想を
 考えてたんですが、途中からもうそういうことは全部飛んでましたね。
 一番近いものをひとつあげろと言われたら、中井英夫の『虚無への供物』の講談社文庫版ですね。
 若い頃に一度読んだだけで、今家にもないから、どこが似てるんだいったい、
 とか言われると反論しにくいんですけどね。
 中井の『とらんぷ譚』の一編のタイトルか何かに、「戦後よ、眠れ」という題かフレーズが
 ありまして、長い間のうちに私は記憶の中でそのフレーズに『虚無への供物』を重ね併せて
 いるのですけどね。
 だから、『虚無への供物』で開かれた「戦後という言説の空間」が吉本隆明の『言語にとって
 美とは何か』の「戦後表出史論」を通って、その中の扉の一部が確実にこの本で
 その「謎」が「謎」のまま閉じられたというかね。
 あれですよあれ、ほら。
 「戦後表出史の中で不気味な閃光を放った構成的時間の喪失」(吉本隆明)というやつですよ。
 『言美』探すのがめんどくさいので記憶から書いてるので間違ってるかも知れませんけどね、
 言い回しが。
 えーと説明したほうがいいのかなあ。
 本書は、同人誌「パピエ・シアン」に大辻隆弘が数年にわたって連載したもので、
 近藤芳美を中心として出発した短歌誌「未来」の「未来月報」という小冊子を契機に、
 岡井隆をメインとしながら当時の歌人たちの「歌に賭けた青春」を
 現在から可能な限り再構成しようとした、驚異の本といいますかねえ。
 中井英夫は『虚無への供物』を「ぼくでなくても誰でもあれを書けたんだ」と
 言ってるはずで、私はバカだから、文字通り受け取るんですが、
 あれは結局「犬も歩けば棒にあたるんだ」と言ってるんでしょうね。
 ただ、「棒」にあたっても全然気づかないやつもいれば、「杉の木」や「電信柱」に
 あたっているのに「これは棒だ!」とかいって興奮して勘違いしたまま突っ走るひととかね、
 そういうひとばかりだ、と。
 で、「棒」にあたってもそれからがめんどくさいわけですよ。
 とりあえずその棒に当時の中井の全身全霊をこめた書物が『虚無への供物』だったわけですね。
 あたった「棒」を限りなく引き延ばし続けているのが今の高橋源一郎ですわね。
 本書は大辻さんが、同じ同人誌の桝屋善成さんから「未来月報」のコピーをおくってもらった、
 というところからはじまります。
 これが「棒」ですね。あたったんですよ。
 もうそこからがね。
 ほんとにもうなんというかね。
 セミドキュメントというか、大辻さんは「歌人」で「一般人」でもあるわけですから、
 そのまま全身で書き続けていくというかね。
 途中で「誰それに電話をかけた」とかいって取材っぽいことをしてゆくわけですよ。
 もう次は誰にかけるんだろう、とかね。
 もう昔懐かしの「菊屋」の「お電話主義」というかね。
 最後は小島信夫の『別れる理由』の終結部みたいになったらどうしようというかね。
 「小泉純一郎に電話をかけた」とか出てきたらどうしようとかね。
 どうもしないんですけどね、別に。
 それぐらいね、スリリングなわけですよ。
 でそういうとこはちょっと文体が佐野真一っぽくなるとかね。
 そりゃあるわけですけどね。
 あるわけですけどね。
 もう、いくわけですよ。
 ぐいぐいと。
 でこう、状況というか時代というかも、昔と違って岡井さんが回想録書いたり
 あちこちで昔のことを書いたりとかしてるわけで、
 本人による三冊本の回想録が岡井さんが生きてるうちに読めるなんて、
 私は若い頃は考えたこともなかったですね。
 だからこういう一時代の追跡劇を、現在の無意識がサポートしてるというかね。
 いやだからほかの誰かに出来るかというと絶対誰にも出来ないだろうなあと
 私はこの本見て思うのですけどね。
 でこの時代と舞台がですね、「昭和28年前後の東京」なわけですよ。
 ちょっと時間はずれるだろうけど、京極夏彦の初期長編シリーズというかね。
 ああいうのがかぶさるわけですよ。
 そこにはたぶんね。
 あるんでしょうねえ、その「不気味な閃光」が。
 だからそれは魅力的でね。
 いやもうすごい本ですよこれは。
 読み終わってやっぱりね。
 「アララギ」っていうのはすごいなあ、とね。
 思いますねえ。
 「歌」の背後に現実があるというのは、私とかはそんなに意識しないところが
 あるんですよ。いやもちろんあるんですけどね。
 あるんだけれども、それはそれとして、と読んでしまいますね。
 「ぎしぎし」「フェニキス」なんて私は永田和宏の評論でしか知らないですからね。
 だからやっぱり永田和宏も元をただせばやはり「アララギ」でね
 そう考えると永田さんの第二歌集『黄金分割』というのはね。
 悲劇的な歌集なのかもねえとかね。
 いろいろ思いますなー。
 これは最後はどこで終わるのかなあと思ったら、最後の方で著者の大辻さんが実際に
 現在の東京を経巡ってね。
 もう、そのあたりに大辻さん目赤不動とかなかったんですか、とかね。
 言いたくなるくらいですよ。
 なくていいんですけどね。
 いやこういう本、豊崎由美さんとかね、現在のそうそうたるブックリスペクターの
 ひととかね。読まないのかなあ。
 確かに「短歌」からものすごい勢いで飛ばされたブーメランがね。
 またものすごい勢いで「短歌」へ戻っていくというね。
 「なんだったんだ、今のは!?」というかね。
 そういう本ではありますよ。
 そういう本ではありますけどね。
 でも「ぜつぼう」とかね。「ピカルディーの三度」とかね。「青猫亭家族展転禄」とかよりね。
 この間はじめて知りましたが伊井さんって読売文学賞もらってるんですなー。
 いやそういうのよりかはね。
 激しくおもしろかったですけどねえ私は。
 途中で『未来歌集』の評を「塔」の創刊号に高安国世が書いてるとかありましてね。
 あそれだったらうちにあるじゃんとか思ってね。
 取りに行こうと立ち上がったら足がつっちゃいましたよ。
 いやおれは森見登美彦がいいよ。とかね。桜庭でいいよ。とかね。
 あんた勝手におもしろがってろよ、幸せなやっちゃな。
 と言われたらああそうですか、とは思うんですけどね。
 うーんいやいい本でした。大辻さんお疲れさまでした。


◇『石田徹也遺作集』は2006年5月初版でこれは2007年9月28日でもう10刷めの本。
 『音速平和』は本屋の棚でははじめてみたので、つい。
 三月書房では『仙波龍英歌集』をはじめて拝見。
 買わなかったけど、許してね、宇田川くん。
 読んでるかどうか知らないし読んでくれてなくてもいいんだけどね。
 言いたいことがあればそれはそれで直接言うわけだから。
 でも装丁もいいしよく出来てるよねえあの本も。
 藤原龍一郎さんの一文も、親愛の情感とどうしようもなさを引き受けながら吐き出すような
 胸にせまってくるもののある文章です。
 80年代というのは何をやっても「時代のおもしろさ」に「自分のやってること」というのが
 負けちゃうような気がする時代だったんじゃないでしょうかね。 
 今は「時代がおもしろくない」ように見えるひとが多いので、「自分のやってること」が
 おもしろいのかどうかわからない−あるいはあんまり気にしない−ひとが多いようにも
 思えたりします。
 そのかわり他人の出してくるものがおもしろいかどうかは猛烈にランク付けするのですね。
 『貧しい音楽』だけは買ってくりゃよかったかなー。
 でも本を買いのがすこともまた人生じゃん、とか思ったりする今宵の私です。ではでは。