キンモクセイと三冊の冊子

◇買った本

*「短歌」11月号
*「俳句」11月号

◇入手

*「scriputa」2013 autumn 


◇短歌賞と俳句賞の発表の号で、妙に気になって二冊とも買ってしまった。
感想を書き留めておきたいとおもった。


◇いい歌を読みたいとかいい歌を書きたいとかは自分の中にいまもあるのだが、
風が吹かないと上がらない凧のような部分も、歌にはあると思う。
 そういう意味では、いまいい歌が作れたり、ひとのそれが読めたりする時代
ではないように基本的には思っている。もちろんこれは個人的な感覚で押し付
けるつもりはまったくない。

◇ひとつの例が、ツイッターでよくある「なんとかの歌bot」というものではない
かと思う。お前の歌集もbotになっているではないか、といわれるかも知れないが
少しだけ書かせて欲しい。短歌を引用してもらうのは確かにありがたいことだし、
無償の好意がそこにあるのも確かだろうと思う。
 しかし私にはbotとして出されると、「この歌もあの歌も歌としては『等価』だ」
という主張が前面にどうしても出てくるように感じられる。botの製作者の意識無
意識にかかわらず、である。
 こういうと、自分の短歌作品や、誰かのそれを特別扱いしてくれ、という主張の
ように聞こえるのかも知れない。
 読む人の自由、というのはそのとおりで、私もツイッターで人の作品を引用した
ことはあり、誰かがこの名前で「検索」したら出てきたら、ほっとするかも知れな
いと思って引用したものもある。
 ただ、それでも『等価』であることのマイナス面を、私は感じてしまうことがあ
るのだ。
 別なことでいえば、自然描写やひととひととの関係意識にこだわり作られている
ようなここ十年ほどの間に書かれた短歌作品をなにげなく読んでいて、「コンビニ」
という言葉を全く使用していないのに、何かありありと「ファミリーマート」や
セブン-イレブン」の看板が眼前に出現してとまどってしまうことがこのごろ私には
ある。
 それはお前が単にコンビニへよくいくからそうなるのだ(一日一回はいくかもし
れない)といわれればこれもおしまいだが。
(コンビニでの会話とかが歌の背後にあるものは、それは見えてあたりまえなので
この話に関係はない)
 そうはいうが、私にそれが見えるのは、その歌の言葉の世界あるいは世間では、
「山」も「海」も「コンビニ」もひょっとしたら『等価』なのではあるまいか。


◇「短歌の声」が聞きたい。
 いまの気持ちを簡単にいうと、そうなると自分では思う。
 くにゃりとした空間に開いたのぞきぐちのようなところから、大きくもなく小さく
もなく風の音のような人が吐き続ける息の音のような、「短歌の声」が聞きたい。
 あんまりこれ以上そういう「声」について説明出来ないが、いま短歌に自分が求め
るものはそういうものであるように思う。
 というところで角川「短歌」の話にうつる。
 受賞作は二作で吉田隼人と伊波真人という方。
 吉田隼人さん(とさんづけした方がやはり書きやすいのでつけさせてもらう)の作
品はなくなった異性を思うという私的なモチーフの強い一連。
 「コンビニ」が見える、というような言い方で言うなら、この作品には「雨」が見
える。
 歌を作りつつ在る「自分」ではない「誰か」が必ずどこかで死につつある、という
世界に振る、いくすじもの雨の小柱が見える。
 私はいまのこの世界と「短歌」との関係は、そういうものではないかと思っている
ところがある。
 極端な言い方で言えば、歌というものがひとつの振り子であるなら、「文学や表現」
を向こうに「丑の刻まいり」をこちらにおいて、より後者の方に近づいているように
思われる。
 あまり力をこめてこういうことを言い続けると、「変な人」というレッテルがはら
れることになる。それは別にかまわないが、あまり意味は無い。
 ただ「厄災」というのはいつでも、「以前よりそれ以上のことが起こる」から、
「厄災」なのである。
 そこへ向かっているわけではないが、その過程を、私達は生きていることになる。
 そういう時代の「歌の声」が、吉田さんの一連からは流れてくると私は感じた。
 多くの歌を目にするような生活を私はまったくしていないが、それでもそういう
「歌の声」を聞くことはまったくないといっていい。
 コンビニの看板が見えるばかりだ。
 私は、少し安堵をした。
 歌の技術的な側面とかは選考座談会で語られているし、驚嘆するような新しい感性
が書かれていると私も思ってるわけではない。
 ただ吉田さんの歌をかくときの「手」には、ある「誠実さ」がこもっているとは思
う。二首ほど引く。


 おもひではたましひの襞 あなたからあつき風ふきつけてはためく


 忘却はやさしきほどに酷なれば書架に『マルテの手記』が足らざり


                忘却のための試論/吉田隼人


 現在、30代より下ぐらいの世代の短歌作品には私にはあまりよくわからない「友情
論」のようなものが言葉のひとつひとつにはりついているように感じられる。そこは
肯定的に感じるべきかも知れないが、私には難しい。
 作品の何気ない依存感は、そこからくるのかも知れないし、そうでないのかも知れ
ない。
 あとはとてもバカみたいなものいいになって申し訳ないが、どう生きていくかを決
めることがどう歌っていくかを決めることになるだろう。


◇伊波さんの作品は、そういう「存在の悲劇性」みたいな側面はさほどなく、「生の
更新感」(「まっさらなシャツをはじめて着るように土曜の朝を大事に過ごす/伊波
真人)とでもいうものに重点がおかれている。ただ一連の中での「ような」の使用回
数の多さは、「近過去短歌」への内的な比重の高さが深いところにあるのではないか
と思ったりする。吉田さんと比べるわけではないが、伊波さんの歌はどちらかといえ
ば「読者」「読者層」がゆっくりとその歌のゆくえを決めていくように思う。


◇佳作は三名。廣野翔一「クロスロード」。作品のどれもに感じられる軽快感は、年
齢ではなくやはり人柄なのではないかと思ったりする。缶コーヒーのコマーシャルの
ような映像の連結の中に、にじみだす自己違和が、今の「短歌」だなあ、これ、と肯
定的に思わせてくれるところがある。でも少し源氏鶏太とかを読み返したくなるとこ
ろもある。鈴木加成太「六畳の帆船」。どちらかといえば直情の文体の作者なのでは
ないかとも思うが発想は近年の児童文学の日常描写を思わせる。年齢からいってそう
いうものを読んできた人なのかも知れない。寺本百花「補償深度」。永田和宏の、タ
イトルの座談会での解説はおもしろい。51歳の私には、ビーカーとか出てくるだけで
研究者やそれに近い人がよく歌を詠み発表していたころの空気を思わせる。「女性」
の「声調」に抵抗感を自分でさほど感じていないところも含めて。


◇長くなったので角川「俳句」は短めに。角川俳句賞。
 予選通過者の作者名は短歌賞と違った意味で豪華で、佐藤文香・山田露結・宮本佳
世乃をはじめ句集を持つか、持っていても少しもおかしくないような名前が並ぶ。
 選考座談会では正木ゆう子の発言や姿勢に興味をひかれた。
 私の興味はとりあえず上田信治作品にあるのだが、ひょっとして正木ゆう子は、上
田さんがこの賞を取るのはもう少しあとでいい、今あげたら少し以前からストレート
に苦労を重ねてきた俳人予備軍たちの行き場所がなくなると思ってるんじゃないか、
とさえ思えた。もちろんそういうことではなく、受賞作をはじめそれぞれの作品に真
摯に向き合った結果こうなったのだと思う。

◇受賞作家の清水良郎さんは丁寧に俳句を続けて来られた方という印象。
ゆがみを感じさせない新味を俳句の総体的な現在への肯定感にのせて詠まれた50句と
いってよいのではないか。

◇候補作品四編。

谷口智行「薬喰」。作品を味わうというよりも「何かいったら怒られそうな雰囲気」
を強く感じてしまう一連。


障子穴よりふたすぢの古轍    谷口智行「薬喰」


風景を切り取る、というより切り離すという感じを私が持つからかも知れない。


上田信治「いくつも」


すでに多くのファンを持っている(と私は思っている)上田作品の魅力は、「飽満化
した市民意識をその飽満化した市民意識でかぎりなくやわらかに打つ」ところにある
と思っている。あとは上の世代に対する説得力ということになるのかも知れないし、
歳月がたてばともに高評価が広がっていくということなのかも知れない。  


うみうしの浮いておよいで海の水


立葵あれは干されてゐるバケツ


ちひさな蜜柑二つ食べたのは昨日 上田信治「いくつも」


 映画のように「アクション」「恋愛」「スリラー」だとか、マンガみたいに「少年
漫画」「少女マンガ」だとかわけられることがない「俳句」の世界ではそのどれもで
はなくどれもであるような「万能性」が求められてしまう。それは神がかったもので
もあれば「万能ねぎ」のような利便性からくるものでもある。「こころざしの低さが
そのまま高さであり、高さがそのまま低さであるようなハイ・アラーキー」(「光の
行方」正岡豊より)はいま確かに上田信治にあるように思う。外山一機にも。問題は
それがどうしたの、ということなのだが、悲しいことにそれはさっぱりわからない。


◇「俳句」では小川軽船の「作り手と読み手の気迫」が秀逸。


◇「scripta」は久々の入手。
夏葉社も港の人もいい出版社だと思うけど、古いところでもこんないい広報誌を出して
いるのは、それはそれでいいことだと思う。11月に國分功一郎と対談イベントがある速
水健朗はこれの連載を読んでいたのであった。ラストのブックレビューはおすすめ。

◇本を買ったかえりは、洛南高校の門の前を妻君と二人で通ってかえった。
 「水がにおう」という荒川洋治の一節を思いつつ、花ざかりのキンモクセイに少
し酔って、家に帰った。