49歳からはじめる短歌・俳句・川柳・連句・現代詩入門(第五回)

◇第五回目を書きました。


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◇入門書は新しいものを買おう



 この文章は「語りかける」口調で私は書いています。
 そういう口調には、いいところも悪いところもあります。
 こういう口調が新鮮に響くとしたら、それはあなたが「一方的な言葉」というものに
どこかで疲れを感じているからかも知れません。
 短歌や俳句の棚には、必ず「作り方」「鑑賞」という種類の「入門書」が置いてあり
ます。
 歌人俳人は、長くやっている人でも、そういうものを買い求めたり、著者から送っ
ていただいたものを興味深く読んだりします。
 自分の名前や作品が引用されているか気になる、というのももちろんあるでしょう。
 しかし実際に読んでみると、おもしろいのです。
 もちろんそういうものを一冊も買わなくてもいいですよ。
 ウェブにも、詩歌関連のページは山のようにありますし、この文章(データ)もそ
のひとつです。
 入門書や解説書の中には、名作、と言われるものも多いです。
 そういうものは、長く出版社が本を出し続けてくれています。
 それでも私は一冊読むとしたら、その時点で一番新しいものがいいのではないか、と
考えます。
 それは、詩歌においては「出自」というものが、何かとても肝心なものとしてその人
のこころや続けていくことのよりどころとなる気がするからです。
 私は特に入門書マニアというわけでもないし、たくさんの本が人から送られてくると
いう種類の人間でもありません。
 たまに本屋で開いたり、さっきもいったようにおもしろいので、ときたま買って読む
くらいです。
 そうして見て来て思うのは、新しいものほど、どこかひりひりした感覚が、本や文章
のすみっこからやってくることです。
 この文の題、「49歳からはじめる」というのは、私が本屋で見た『50歳からはじめる
俳句・川柳・短歌の教科書』という本の題のパロディか、盗作のようなものです。
 ひとはどう思うかわかりませんが、私はよくつけてあるなあ、と感心しました。
 まず、一冊で「俳句」「川柳」「短歌」のことが「わかる」という感じがありますね。
 お得な感じがします。
 余計なものにお金を使いたくない。けれど贅沢も幸福のひとつではあります。
 「贅沢」という漢字もなんだか珍しく感じますね。今自分で見て思いました。
 題が説明的なところもいいと思います。
 「現実」というのは「人件費」のことだと、少し前から私は思っています。
 世界や社会の多くのものは、それを作ったり、維持したりすることにかかる人件費に
いったん置き換えられたあと、ひとの目に見えるものになっていると思うからです。
 身の回りには「説明」されないとわからないものが増えていると思います。
 それは「説明」にすごく「人件費」がかかるからではないでしょうか。
 そこで「スキル」という変な言葉が生まれました。
 「説明されないとわからないのはあなたのスキルが足らないからだ」という感じで使
われます。
 「デザイン」で説明しなくてもわかるようにしよう、という大きな流れもあります。
 すると今度は「センス」という言葉が現れます。
 「お金を入れたらこのボタンが点滅するでしょ。そしたらそれを押せばいいんですよ。
センスないなあ」という感じでしょうか。
 このごろよく売れる本というのは、一冊まるまる説明であることが多いようにも思え
ます。
 『国家の品格』というのは『国家の品格』について説明してあるし、『バカの壁』と
いうのは『バカの壁』について説明してある本です。
 ちょうどいいくらいの「説明」というのが、ちょうどいいくらいの値段で手に入ると
いうのが、気持ち良いのではないでしょうか。
 そういう意味で『50歳からはじめる俳句・川柳・短歌の教科書』という説明的な題は
とてもよいと私は思います。
 もちろん、ほかにもここ一年で出た俳句や短歌や詩の本は何冊かあります。
 さきに「出自」という言葉を出しました。
 詩歌の世界は、はやりすたりのすごくある世界だと私は思っています。
 もうちょっとおおげさにいうと「詩歌」とは「詩歌のはやりすたり」のことだ、とも
言えます。
 しかしはやらせるのもすたらせるのも、つまりは「その当時のひとびと」によります。
 どんなに古いものでも、それを引き出してきて「いま」へ向かって語るのは、その当
時の「現在」の人です。
 まだ世の中は、「現代」という言葉以外、このいまを含む、時代をあらわす言葉や基
本の手触り感を、生み出してはいません。
 (俳人有馬朗人さんは、ある俳句の講演の中で、「現代というのはだいたい2050年
くらいまでのこと」として使用する、という意味のことを話していました。こういう形
で「現代」を定めようとする使い方は珍しく思ったので、ここにあげておきます。)
 「ゼロ年代」という言葉がようやく生まれた感じもしますが、『クローズアップゼロ
年代』という番組名は、あの番組にはそぐいませんね。
 「出自」というのは、たぶんその人が「はじまり」に受けたいろんなものや、空気が、
どことはいえないけれど自分というものの中に、しっかり残ったもののことです。
 30年ほど詩歌を見てきて思うのは、ああ、この人はなんだか作品も考え方も新しいな
と思う人でも、その人の「はじまり」の空気や考え方を、よく見ると強く残しているな
あ、と感じられることです。
 新しい入門書のいいところのひとつに、詩歌を続けていくことの「具体的」な方法が
より多く書かれている気がするところです。
 私の目にした一番古い入門・教科書的なもののひとつは、大正三年十一月二十八日が
初版の『婦人文庫』というシリーズの『歌集』という巻です。
 この巻末に50ページほどを使って「和歌作法」というものが載っています。
 文章もおもしろいのですが、なんといっても「書式」の項目が一番おもしろい。
 少し引用します。


 「  一、詠草


   和歌の書式には詠草、懐紙、短冊色紙あり。
   詠草には竪詠草と折詠草との二つあり。
   竪詠草は儀式に用ひ、奉書、杉原、西の内などを
   竪二つに折りたるを正式とす。」



 ルビは省略しました。「竪詠草」は「たてえいそう」、「折詠草」は「おりえいそう」
と読みます。このあと、名はどこに書き、行はどう書くかがこと細かに記されています。
 「短冊」の書き方も、女性と男性では違い、「古(いにしえ)の法」では女性は裏に
名前を書く、男性は表というようなことも書いた上で、いまは普通に句の終わりの方に
書くようになったと書いてあります。
 たった一冊の本でその当時はこれがすべてだったとはいいませんしそういうものでも
ないでしょう。
 ただこの当時、まだ一部では「短歌ー和歌」は印刷するという前提のものでもなく、
「師」に見せるものとしてまずはあったし、現在の様々な歌会でも使用される詠草とい
う言葉はやはりここから来ていると思ったりします。
(句会の場合の「雑詠」についてはまた書きます)
 対して現在の入門書では、たぶんどの種類の詩型でもインターネット云々という項目
が必ず入るのではないでしょうか。
 それだけではなく、現在においてその著者が詩歌に関わることの意味や価値を、わか
りやすい言葉で懸命に語ろうとしていると私は思えます。
 この「いま」において。
 これが私が入門書は新しいもののほうがいい、という理由です。
 うーん、長い項目でしたねえ。ラジオでもつけますか。