49歳からはじめる短歌・俳句・川柳・連句・現代詩入門(第六回)

◇第六回目です。


◇ここまで書きましたが、買い物に出たりしたいので、
 一度あげておきます。
 となりのおっさんが話してるようにずっと書きたいのですが、
 このあたりの話でそれをするのは難儀ですね。



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◇「現代詩」を見てみよう


 今から「現代詩」の話をします。
 少し長くなります。またわからないところも出てくるはずです。
 これは話の性質上仕方ないことです。お茶は先に用意しておいてください。
 岡本太郎のお母さんの岡本かの子さんは長電話で有名で、電話をかけたらまず
「椅子をもっていらっしゃい」と言ったりしたそうです。
 固定電話しかなかったころの話ですが、あんな感じ。
 今から話す現代詩の話は私の個人的なものだとも言っておきます。
 いわゆる「現代詩」の作者の方は、こんなことは言わないだろう、という意味です。
 「現代詩」をいくつかの言い方でとりあえず説明してみます。
 まずひとつめ。「現代詩」は「特殊詩」です。
 今現代で書かれてる詩はすべて「現代詩」だという人に逆らうつもりはありません。
しかしそれならば、なぜある詩はとてもわかりやすくて、ある詩はとてもわかりにくい
のか、わかりにくい詩はそれなのになぜある種の読者の胸を強烈に叩くのか説明出来な
いと思います。
 ふたつめ。その「特殊詩」の世界では「わからない」ことのほうが、「わかる」こと
よりも、価値が大きいとされることがあることです。
 日常の会話というのは、わからないとお互い険悪になります。
 言葉がひとつひとつ、「もの」や「こと」とつながっているから、会話は成り立ちます。
 伊奈かっぺいさんという人がいます。
 北の地方の方言を自分のキャラクターに合わせて、テレビに出たり、いろんな仕事をして
います。その人の話に、寒いところでは、口を開くのも大変だし何より話してる時間も身が
凍えるから、会話が短くなる、と言って次の例をひいたことがあります



ーどさ?
ーゆさ。



 わかりますか。これで。



ーどさ?(どこへいくんですか?)
ーゆさ。(湯ー外のお風呂にいってこようと思うのです)




 という意味らしいです。
 「ことば」というものは、私はこういうものではないかと思います。
 短くなったり、長くなったり、ある地域や時代でしか通用しなかったりするけれども、言って
しまえばその「本人」たちのもの、そういうものだと思います。
 「詩」もたぶん、作者と読者の「本人」たちのものだと私は思います。
 ただそれだけではすまないところもあるのですが、それはまた別の項目で言います。
 「現代詩」という「特殊詩」の中では、「わかるー『銀行の前に犬が座っています』というよ
うな言い方」よりも「わからないー『銀行の前も後ろもアルキメデスだった』というような言い
方」のほうが価値がある、あるいはそういう言い方でしか伝わらないものを伝えようとするのだ、
ということです。
 いくつか実際の「詩」を読むということをここからはじめます。
 ほんとはねえ・・・これはやりたくないんですよ。
 なぜかというといくら優れたと私が思うものをもってきても、それでひとつのジャンルを代表
させるのは無理があるからです。
 ま、しかし。しょうがありませんね。
 ここ十年ほどで一冊詩集を選ぶとしたら、私は藤井貞和の『神の子犬』を上げます。
 しかしこの詩集は今手元にありません。
 松本圭二の詩集『アストロ・ノート』に収録されている、「青猫以後」というかなり長い詩
があります。雑誌「ユリイカ」に掲載されていたとき、読んで大変感銘を受けた詩です。
 これは詩集がありますので、ひとつはこれにします。
 もうひとつは、安川奈緒という詩人の「今夜、すべてのメニューを」という詩で、詩集にも入っ
ているのですが、詩集は手元にないです。それに私は投稿された時点で発表されたもののほうが
好きなので、こちらでとりあげます。
 あとひとつ、関口涼子さんという詩人がいます。この人の詩集で今手元にあるもの、『発光性
diapostive』これをとりあげます。
 これまで「現代詩」というものを「特殊詩」「わかることよりわからないことが少し上」とい
うように説明しました。もうひとつ付け加えます。
 みっつめ。「叙述の堰き止め」。おおかたの現代詩は叙述をせき止める、言いかけた言葉が当
たり前のように次に出てくる言葉を、わざと別の言葉と入れ替えて、また叙述する、という書き
方をされています。
 これについては、橋爪大三郎さんが、瀬尾育生という詩人の詩集の解説の中でわかりやすく言
ってくれています。
 多くの人がもうこのあたりでこの文章を読む気が失せてくるのではと私は思っているので、ざ
っくりとはしょって引用します。
 コマーシャルかジングルでも入れたいんですがねえ・・・。
 橋爪さんによれば、詩人の瀬尾さんの詩というのは、「夕方ロータリーにさしかかると」と素
直に言えばよいのに、「車輪がとり囲んでいる円陣のなかでゆうぐれの道がちぢれるように湾曲
すると」と言い換えなければ気がすまないだけのものだそうです。
 時としてほんとうにうつくしい詩を書かれる方に、荒川洋治さんがいると思います。
 詩とは確かにひとつの言い換えです。
 詩は言葉ですから、混乱しがちですが、紙に「詩」と書いてもそれはただの字なので結局は「詩」
と書かずにいか詩を書くかということです。
 荒川さんは、ここ二十年〜三十年ほどの間の、本人、荒川さんの生きている世界の感覚を、
街の間を通り抜ける風や音とともに、どこからか漂ってきた何かの「匂い」が強くこころに呼び覚ます遠い
記憶に対するとまどいとそれにともなういくばくかの悲しみや、逆にその悲しみを持つことにより
生まれる喜びといったものを、詩としてひとに手渡すことの出来るひとですね。
 「見附のみどりに」は発表されてしばらくの間は、かなり引用された名作です。
 しかしこの詩で実際に起こっているとおもわれるのは、作品の中の「わたし」が埼玉銀行の新宿
支店のあたりを歩いてるということだけのように感じられます。
 それが、「江戸は改代町への/みどりをすぎる」という序盤の書き出しで、拡大されています。
 「叙述」が拡大され、引き伸ばされていると言えばよいでしょうか。
 それが荒川さんにとっての詩なのでしょうし、私もそれを詩だと思います。
 さて、では松本圭二の「青猫以降」を読んでみましょう。
 「ユリイカ」発表時のものと、詩集のものとは、かなり違う所があります。引用は、詩集の作品
からします。私は初出のもの、黒い線が活字の上から引かれてるものの方を好みます。
 この詩は明るいものではありません。暗いですが、暗さのなかで自分の内臓から発する血や肉の
なまあたたかさが実感されるような、そういう種類の優れた作品だと思います。
 おもな叙述として書かれるのは、本人の生の履歴のなかから紡ぎだされた、世界や自分のまわり
に悪態をつき、どことも知らぬ中規模都市で生活をする男性の物語です。
 それに、その男が書いたとも、「世界」という名の「悪役」が詩の中に侵入してきていきなりそ
こに書き付けたとも見える形で、別のフォントを使った基本は行変えの言葉がさしはさまれてゆき
ます。
 鮎川信夫は、吉本隆明の詩集の解説で、「反逆的モラル」という言葉を使っています。
 詩を書くことがヒロイックであったころの、今では想像もしにくいそれはひとつの態度です。
 もう何をしてもそれは反逆ではない。
 単なる自滅への道行きにすぎない。
 そのときになお詩を書こうとする作中の「男」に



 「おれはもう死ぬっちゅうのに、ろくな詩が書けん。」



 と言わせたあと、いきなり強調された別の字体で、



 「無声慟哭みたいなのを書いてみたいのう!」



 という一行が書かれます。
 言ってしまえばこの「青猫以後」という詩は「ろくな詩が書けない」ということのほんとうの意味を
読むものと書いている作者自身に呪法にも似た徹底した言葉で投げかけている詩だと思えます。
 さきに書いたように「現代詩」とは「特殊詩」です。
 しかし「特殊詩」などという名称はありえません。
 どのようにして「自分本人」の詩を書くか、ということと、自分の「生(もしくは死)」をときに危
うく、ときに堂々と探りながら実行していく、そういうひとたちの集まる所、と言えばいいのかも知れ
ないですね。
 長いですがもうしょうがない。
 私はパソコンの前にみかんを一個持って来ました。
 これを食べながら続きを書きます。
 もぐもぐ。
 もぐもぐもぐ。
 安川奈緒さんの詩へ移りましょう。



(つづく)