矛盾に耐える情熱
◇買った本
*『天使が通る』 浅田彰・島田雅彦 新潮文庫
*『ミュージック捜査線』 ピーター・バラカン 新潮文庫
*「音楽の手帖・ベートーヴェン」 青土社
*『御緩漫玉日記 一巻』 桜玉吉 エンターブレイン
*『豪華版・日本文学全集・第六巻/古典詩歌集』 河出書房新社
*『池田大作全集・第105巻』 M・ゴルバチョフ・池田大作 聖教新聞社
◇いただいた本
*『幸彦幻景』 攝津資子 スタジオエッヂ
*「逸」23号 花森こま個人誌
◇読んだ(というか目を通したというか)本
*『海辺のカフカ』 村上春樹 新潮文庫
*『石田徹也遺作集』 石田徹也 求龍堂
*『音速平和』 水無田気流 思潮社
◇郵便受けに黄色い書籍用の厚紙のものがはいっていて、あ、やっと
セレクションの次のやつが出たのかな、と思ったら、
攝津さんの奥さんが書いた、上記の本であった。
山崎十死生さんの「紫」に連載された、故・攝津幸彦の生前の思い出を
書きつづったもので、知らないところは興味深く、一度切りだが私が会ってからのことは
それなりになるほどと思い、書を読み進めていただかせた。
とはいえ、会ったといっても本書にも書かれている「安井浩司を囲む会」の二次会の喫茶店
で、何かひとこと言われただけのことだが。
私なんぞは坪内さんの「現代俳句」がまだ梅田の紀伊国屋で売っていたころにそういった
ものを読み始めているし、結果として『鳥子』から最後の句集までは句集の形で
読んだことがあるわけだが、そういう「古い」読者でない人には、「近寄りがたい孤高の
俳人」というよりは、人間・攝津幸彦というのがよく描かれていていい本だと思う。
それでも、本書を見てもそうなのだが、坪内捻典の名は何回も出てきても、1980年から
1990年なかばにかけてにおいても、夏石番矢も林桂の名も出てこないのは、
攝津の俳人としての軌道が、それらの俳人とは少しまた違うところを走って
いたということだろう。
また昔の話かよ、と言われるのだが、坪内・林・夏石らの第一評論集は、
若い私にはまぶしくて、かっこよくて、俳句はこれから
そうしたやわらかい文体が存在論的な光芒を放ちながら、天空へ立ち上る二重螺旋の
軌跡をえがいてゆくのだと思わせるに充分なものだった。
今はさながらインドの新興IT都市のように、バラックと巨大企業が併存するような
「俳句都市」の時代になっていて、それは悲しくはないけれど、
こんなはずだったかなあ、とそれこそ首を鸚鵡のようにいぶかしんでしまうしまうのである。
◇水無田気流の『音速平和』にはまいった。
私はたとえば小池昌代の詩が、どうも好きになれない。
好きにならなくてもその世評の高さが理解できるように表現の高さがわかれば
それでいいのだが、どうもそれすらもわからない。
関口涼子は、詩がわかるというわけではないが、活字が印刷されている紙面から
浮かび上がる白い光の中に、かすかな女性性と生きるてざわりのようなものが、
ものすごく丁寧に縫製されたドレスを見るように感じ取られる。
倉田比羽子は、わからない詩も多いが、『夏の地名』の最後にはいっている
「スーパーオリンピアからはじまる」という詩はこれもまた
スーパーオリンピア以外のどこにはじまりがあるというのか、という
地中海的な光源を詩の背後に感じてしまう私のフェイバリットである。
三角みず紀をまったくおもしろいと思えないのは、上記のような感想を
読んでもらえれば言うまでもあるまい。
しかし水無田の『音速平和』の一編目、「電球体」にはまいった。
高いのは「テンション」ではなく「トーン」である。
あきらかに、今書かれている多くの詩がもつ声の低さや野太さとは違う、
ものすごくソリッドな図々しさとでも言いたくなる「声の高さ」が、
その一編の詩を支配している。
しかし、詩の言葉自体は、さほど難解な言語や言い回しを用いているわけではない。
和合亮一のほうがはるかに長く、わかりにくい。
ひとつには、水無田のカタカナの使用法であろう。
「CPU周波数速度」を「シイピイユウシュウハスウソクド」と書き換えるとき、
そこにあるのは見慣れた「転調」でも「諧謔」でもなく、
「私たちがほんとうにそう言っている発音のたどたどしさ」や「人間の声とも
鳥の声とも機械の声」とも聞き分けがたい幾重にもフィルターをかけられた
(ということは幾重にも「お金」をかけられた)
「声」が、書き表されているのである。
というような詩人が出てきた−現代詩手帖賞を受賞したのは2003年のことだそうで、
2003年というのは「短歌ヴァーサス」の創刊号が出た年だったりする。
なるほどね・・・。
本書自体は2005年の出版で、私も集中の一編「金魚日」は何かで読んだ記憶が
あるのだが、本書の白眉はやはり冒頭の数編にあるのではないか。
しかしあえてケチをつけるわけではないのだが、
詩集自体を読み進めていくと途中からは退屈になってゆく。
藤井貞和の『神の仔犬』にあるような「低い声」が持つ「告発の物語」に、
どちらかと言えば古い詩の読者の私が慣れきっていて、
彼女の詩集にはそれがほとんどないからだろう。
固まり、として読まなければいけないものを擬似的に通過しながら読めば、
そりゃあなた、退屈ですよ。
イメージの高層建築と、ファンドがファンドを生む金銭巨大都市の上空で、
何かよくわからない食べ物をぱくつきながら、ひらりと飛び移る詩の作者の姿。
人称としてまさしくそれでしかありえない「私」の姿。
が提示されている、という点では、先頃読んだ中尾太一よりも
こちらのほうが新しい、という感じがする。
そうは言うが男性の詩というのはあれはあれで牢獄みたいなモノデスヨネ、
とこの作者なら言うだろうか。
まあどちらでもよいけれど、それなりに近刊の第二詩集に期待値の分銅を載せてしまう
ワタシですね。
◇『御緩漫玉日記・第一巻』より名セリフと思ったもの。
「先生、こんな怪しい柄ばかりでなくて
定番の61〜65番と砂目なんかをまとめて買っといて
くれると助かります私」
(052頁)
(そうだ! そうだ! もっともだ! −正岡)
「この世に処女や童貞がいることなどすっかり忘れていた。」
(063頁)
(うんうん。おれもときおり忘れている。 −正岡)
どうでもいいけどこの本も2005年が初版です。どうでもいいけどね・・・。
◇『海辺のカフカ』にベートーヴェンの「大公三重奏曲」というのが出てきて、
青土社のベートーヴェンの本にも星新一がその曲について書いていたので
古い本だけどつい手に。キトラ文庫の日曜ワゴンで・・・。
さすがに近所のCDショップではその曲のCDはみつからず。
聞いたらつまんないかも知れないけれど、ちょっと聞いてはみたいなあ。