「ジョン・ゾーンが騒ぐだけのことはある!」
◇買った本
*『麦踏みクーツェ』 いしいしんじ 理論社
*『となり町戦争』 三崎亜記 集英社
*『スポーツ解体新書』 玉木正之 朝日文庫
*『インストール』 綿矢りさ 河出文庫
*『ニッポンの舞台裏』 吉田司 洋泉社
*「現代短歌雁」52号 2002/5 雁書館
*「短歌研究」 1991/7 短歌研究社
*「現代思想」 特集・出産 1990/6 青土社
*「無限−詩と詩論」 25号 政治公論社『無限』編集部
*「短歌」 2007/12 角川学芸出版
◇買ったCD
*「ベートーヴェン/大公トリオ他」 スーク・トリオ DENON
*「フランスの弦楽四重奏団/ミヨー弦楽四重奏曲第二番他」
クレットリ弦楽四重奏団 新星堂
◇いただいた本
*「弦」 創刊号 弦短歌会
*『猫とピストル』 萩原健之 ブックパーク
◇もう少し何か買ったと思うけど忘れてしまった・・・。
◇このごろ何を考えていたかというと、ずっと「対人関係のリアリティ」
ということを考えていた。
現在の短歌の読解において「リアリティ−実感がある」という感想がもたらされると
したら、そこにあるのは「対人関係のリアリティ」なのではないか。
(リアリティを「実感」と等しく扱うことの詳細や疑義についてはひとまず置く)
しかし、この場合「対人関係」というのはいわゆる人間関係のこととは
少し違うニュアンスがある。日本語における「私」というのは、「あなた」の「あなた」
だという感覚とも異なる。
別に論を立てて他人を「説得」したいわけではないので、作品を引用して論を補強はしない。
ざっと書いていくが、今私が言う「対人関係」における「人」というのは、
その人その人によって異なる「立場」や「人格」ではなく、「所属」を根拠にしているところの
「人」であるように私には思える。「母」は「母」として「母」という母集団なり概念なり習俗に
依拠した存在であり、父も子も「作者」もまたしかりではないのか。
そう考えると、現在の短歌のリアリティというのは、「所属のリアリティ」ということになるのでは
ないか。
◇本棚の奥にあった、山崎豊子の『二つの祖国』を通読した。
これはこれで私はおもしろく読んだ。この小説の主人公は、アメリカ移民の父を持つ日系二世の
青年で、舞台は太平洋戦争の中期のアメリカから、戦後の日本である。
主人公は、物語の過程で、米国の日本語語学兵として米国軍の兵士として戦場に出る。
血を分けた弟は、開戦前から父の意志によって、日本へ帰国して教育を受けていたため、
日本軍の兵士として、出兵する。
その二人がルソン島の戦役において、戦場で出会って、兄の主人公は弟の足を撃ってしまう。
要約すると偶然が過ぎるようになるがそれは小説の素材の持つ限界だと思ったほうが良いと私は感じる。
それはそれとして、戦場でこのように兄弟が別の国家に所属することの葛藤が発生するとしても、
それは「所属」の問題である。
もちろん、「所属」というのは生易しい桎梏ではなく、人間なら人間の生の奥深くまで染み込み、
内側から生を支配し、数々の選択においてその人間を導いたり自己処罰の牢獄に陥れたりするもので、
それ自体は善でもなければ悪でもなく、価値でもなければ負価値でもない。
それ自体は、である。
しかしハンバーグの素材をいちいち、これは牛肉、これはつなぎの小麦粉などといちいち分離して
味わうことなど不可能なように、「所属」を対象化して取り出すことなど不可能ではある。
小説自体は、主人公がこのあと東京裁判の通訳モニターとして裁判そのものの判決の翻訳過程にまで
深く関係したのち、葛藤に耐えきれず、または葛藤そのものとの対決の結果として、自死を選ぶ、
という結末をもって終わる。
それはもちろん、小説だから、完結するためには終わらなければいけない。
話を詩や短歌に移せば、詩歌の場合は完結は必要あるまい。
ディミヌエンド。
または、終わりなき終わり、がそこにあればいいわけである。
◇図書館に行って、「短歌」連載の小高賢による岡井隆の聞き書きを通読した。
「短歌研究」の恒例の年鑑回顧の座談会も読んだ。
昔と違って、岡井の短歌の諸作の背景が、その真偽の度合いの完全さはいざ知らず、
明らかになるにつれ、(明らかになっていくような気が確かになるようにつれ、と
言い換えてもいいが)「あれ」はなんだったのだろう、という気がわいてくる。
「あれ」というのは、つまりは私−正岡の中の物語、岡井の主に『天河庭園集』あたり
までの短歌作品に対する勝手な「思い入れ」といってよい。
男性の短歌作品というのは、無意識のうちに読者を「青年」「壮年」「老年」の三つに
読者をカテゴライズして書かれるものだろう、という感覚が私には漠然としてだが、ある。
女性の短歌作者の場合は、そういう年齢論ではなく、「女性」「深淵」「鬼門」という三つの
カテゴリーを無意識に自分の読者として選別しているように私には思える。
女性の短歌作者の場合はひとまず置く。
あ、書いてたら12時まわってしまった。
話のモードを変えてひとまず、この話の終わりへ、記述を進めることにする。
その前に先の女性の短歌作者について言えば、花山多佳子はもちろん「鬼門」の人である。
カテゴライズが一番不明なのは、あるいはその三つにまたがっているように思えるのは、
小池純代である。
かまくらの昔みたいなしあはせがほしいの でなきやほしくはないの
「輪舞曲口説」 小池純代 「短歌研究/1991/7」
◇「現代思想」の1990年6月号というのは私が短歌をやめたころの本で、
そういう意味では現在からは近時代性もくそもあったものではないのだが、
それでも特集中の落合恵美子の「胎児は誰のものなのか−避妊と堕胎の歴史から」
と題されたインタビュー中の次の箇所には、なんとなく虚をつかれた感じがした。
落合−
「では本当はどうなんだろうというと、本当はというのはないのです。社会で決められて
共有された感じ方があるだけです。妊婦もそれに沿って内観を解釈するのでしょう。
感覚として、胎児に他者を感じるけれども、しかしそれが本当に他者かどうかはあく
までも社会の約束事なのです。さっきもいったように、生まれてから数日間は他者では
ない、人間ではないとして社会を運営することも可能です。ただどこからどこまでが人
間だということを約束しないでは社会が成り立たない。」
「妊婦」を短歌作者、「胎児」を短歌、「新生児」を発表された短歌作品、などと置き換えて
みるわけだ。そういうアナロジーを人に強要しようというわけではない。
しかし。それはともかく。まあそれはそれとして。
「本当は」というのは「ない」のだとしたら、すべては・・・虚妄?
すべて大きな虚妄だつたと気付くころ深い批評が出はじめてゐた
『<テロリズム>以降の感想/草の雨』 岡井隆(全歌集P751)
「三首目(正岡註=文脈によれば上記の歌のこと)については、具体的なことは今のところ
私にはわからない。」
「現代短歌雁52号・岡井隆の近年の時事詠について/大島史洋」