「自己の利害」/「共有の報酬」


◇いただいた本


*第二次「未定」87号


 「座談会:現代俳句・現代短歌・現代詩の動向と諸問題」というのが掲載されていて、
 これが結構おもしろかった。
 出席者は江田浩司・久谷雉・高原耕治・滝口浩・西口昌伸の五人と、司会に玉川満である。
  俳句誌の「未定」でこういう各ジャンルを集めての座談会は珍しいし、
 特に話がかみ合って新鮮な問題や話題が噴出しているとかいうのではないのだが、
 冒頭の江田の短歌の現状分析からして私には興味深かった。
  過去を振り返りながら最近の若い歌人について話す、という言い方で、
 江田は、現在の若い歌人がニューウエーブに批判的な歌人と、ニューウエーブから
 短歌を学び、それを継承したポストニューウエーブの世代に分裂していく、と話す。
  どこも新しいとこがないではないか、というかも知れないが、こうしたすっきり
 した二極分化は、つまりニューウエーブといういまだに運動とも世代とも説明されにくい
 一時代が、後続の世代の影響の中心にあるという断定によると私には思える。
  つまりニューウエーブに批判的な歌人も、ポストニューウエーブ派(と呼ぶのは
 暫定的なものであって、どこからどこまでと区切るつもりはない)も同じようなもの
 だと言ってるように感じられるということである。
  そう考えるなら、「ダーツ」において仙波龍英に関する肯定的な論考が掲載された
 りしたことも納得がゆく。
  私自身は、ニューウエーブという時代にはいる少し前、今よりはるかに前衛短歌、
 なかんずく塚本邦雄の文体の影響が、壮年若手の男性歌人にまだまだ顕著であり、
 顕著であることはそれはそれでそう悪いものではなかった時代を、自分の「故郷」
 のように今も感じている。
  目の前に「人生」と「青春」の二枚の札があるときに、迷いつつ、また苦笑しながら、
 先のことを思いやることの大切さを知りつつも、「青春」の札をとってしまうような、
 そんな歌詠みたちの顔ぶれだったと思う。
  そしてその「青春」の札が役立たずになっていくとともに、それぞれの歌詠みたちも
 やがて短歌の舞台からいなくなっていくほかはなかった、といえばあまりにロマンチック
 過ぎるのはわかっているけれど、それは結構笑いをともなったロマンチズムだったと
 私は思っている。
  役立たずになっていくというようなことが許されないように感じられる今の時代の方が、
 私の感覚ではきつい時代のように思える。
  さて、江田の発言に戻れば、彼は、ニューウエーブの批判か継承か、という問題は今後
 の歌壇の動静を確実に左右すると思われます、と語り、そこから本質的な相互批評がなされた
 ときに、短歌は新たなステージを迎えるが、現在そのような状況が訪れる気配はない、
 とくくる。
  ここで江田は「自己の利害」という私には多少魅惑的なものを遠因のひとつとして出して
 くるのだが、そのことについてはまたの機会に。
  先にも書いたように、どこも新しい分析ではないじゃないか、という人もいるのだろうし、
 座談会での発言という性質上、個々のそれこそ若い歌人たちに関する作品をあげての言及が
 まったくないというのもあるけれど、(個人的には枡野浩一という歌人はこの批判−継承の
 グループに江田の考えの中でははいっているのかが聞いてみたい)
 形なきかに見える現在の短歌の輪郭をおぼろげに描きあげているように私には思えた。
  ただ『カバン』は正確に『かばん』とひらがなで表記してほしかった。
  現代詩の久谷雉の話は、こういった江田の発言と交錯しているわけではないが、それこそ
 そうそう詩と短歌の狭間がたやすく埋まるわけでもないから、それはそれでいいと私は思う。
 久谷本人が、斎藤倫と三角みづ紀と小笠原鳥類を一つのものさしで評価するって発想自体が
 狂っている、というのと同じことだ。
  久谷は現代詩の書き手にありがちな難解な語彙の壁をはりめぐらすように語るタイプの詩
 人ではないから、それなりに現在の詩の潮流の中にいる書き手の「気分」のようなものを代弁
 しているように私には思えた。
  発言の中で久谷は現在の「現代詩手帖」の平明なものも難解なものも網羅しようとする方針
 を過去の同誌と比較して否定的に述べている。
  弁護する気はさらさらないのだが、それでも去年の12月号の年間アンソロジーは、毎年見て
 いるわけではない私にも、少し選をする「目」が、いい方向に変わっているように思えるのだ
 がどうだろうか。(雑誌の総ページからすると意外と少ない台割なのだが)
  「現代詩」が「現代詩」だけではやっていけない、(短歌や俳句をとりあげるとかいうこと
 ではなく)さりとてそのことに性急な切実さで対応しようとはしない、少しゆるやかな、しかし
 クールな視線を私は感じてしまうのだが。
  あと在庫と負債をかかえて思潮社が倒れるわけにもいかない、という立場も。
  どうして安川奈緒の詩に赤井秀和が出てこなくてはいけないのか、それは赤井秀和が出てこ
 ないと「やっていけない」からじゃないのかな?
  短歌の話が11月号から継続するかと思った瀬尾の時評は、あっさり詩のことに話題が変わっ
 て個人的には脱力したけれどもさ。
  最後に俳句の問題では、山中智恵子作品をめぐっての江田・高原のやりとりに私はこころ惹
 かれるものがあった。
  要約出来るような流れの話ではないが、言葉と「私」との同定関係の謎を短歌形式で解いて
 いくというのが、短歌に関わっている江田さんの基本的な姿勢で、そういう点は俳句形式も同
 じだ、と高原は江田に語りかける。そして、言葉と存在の従来の関係性を根こそぎ変革してし
 まうような<楔>を表現に打ち込む、いやそういう<楔>が打ち込まれて初めて表現とか形式が
 成立し、しかもそれを共有できるというような事態が出現してほしい、と続ける。
  関心をもたれた方は出来れば本誌にあたって本文を見てほしいが、高原の言葉の流れに、
 見慣れた性急な文学的ロマンチズムではないものを私は感じる部分があるのだが。
  現実、としては私たちは現在書かれている作品と出会う他はなく、それ以外の作品、などは
 どこにもない。
  だとしても、短絡でも、性急でもない、望みをもつ「こころ」や「からだ」は、それごと、
 今書かれある以上の、「作品」に出会うのではあるまいか。
  と卒業式の校長先生のような一文をおいて、この文を終える私であった。まる。


◇あとこれとは全然関係ないけど近松門左衛門の「浦島年代記」ってあほみたいで
 おもろいな!
 高山れおなさんはチェック済みなのかなー。