枡野浩一・杉田脇士『歌 ロングロングショートソングロング』の感想
◇「本」とは、ドキュメンタリーである。
◇気の利いた言い方をしようとしている。気が利かないより利いたほうが、
なんとなく感じがいいような気がするから。でも本当はそんなことを
誰も強要しているわけでもない。でもこのごろよく耳にするあの「空気読めよ」
という言葉は、何なのだろう。この前は電車の中で、学校の遠足らしい集団で
男の若い先生が、男の子に向けて言っていた。「お前、空気読めよー」。
小学生から空気読めなきゃだめなの?
じゃ幼稚園児は?
◇枡野浩一の新著『歌 ロングロングショートソングロング』はとても綺麗な本だ。
短歌や詩篇に写真をつけて刊行するのは、どこか人に「あざとさ」を
感じさせるところがある。
もともとわかりにくいもの-ハードなものを写真でソフトに見せる、
という感じがするからか。
それとも短歌や詩が持っている圧縮性や断片性から生じる物理的な原稿の量の
少なさを、写真で水増ししようとさせているように見えるからか。
それでもこの本は綺麗だ。
LPレコードとEPレコードの中間の大きさのようなジャケットの感覚がある。
◇短歌は70首。一般の歌集の歌数から考えるとこれは少ない。
実際にページをめくってみるとそんな感じはほとんどしない。
枡野はあるイベントで「僕みたいな短歌は少し頭がいい子なら、
誰でも書けちゃうんですよ」と言っていた。
それに対する私の答えは、「でも(他の人が書いても)一線はこえないですよね」
というものであった。
今その「一線」を言葉にしようと思うのだが、なかなかそれができない。
その「一線」が韻律によるものであることは確かなのだが、
誰でも書けそうな言葉のつながりがどうしてその人にしか書けないような
「調べ」や言葉の質感を持つのかは、それなりに解き明かせない美しい
なぞなぞのひとつなのだ。
杉田脇士の写真も、実はこれに似ている。
杉田の写真は主に「街」の写真だ。
光線はやわらかく、デジタルカメラ(だと思うのだが)による周縁の歪を
さほど神経質に直そうとはしていないものもままある。
音楽のまったく流れないロードムービーのような写真たちは、
近接していながら離れているような被写体たちを映し出している。
「やさしさとは距離感である」といったのはかつての三浦雅士だった。
それは確かに枡野浩一の短歌と響き合っている。
◇本書には、「歌について」という枡野浩一の本書の出来上がるプロセスを
綴った文章、杉田脇士の「枡野浩一さんからの手紙」という少し長めの
枡野浩一と自分の現在までの関わりや作品への思いを綴った文章、そして
枡野自身による「覚え書き」の3つの文章が巻末に載っている。
本は、当たり前だが、人の手で作られる。
読者である私は、出来上がったものを手に取るだけ。
しかしまた当たり前だが、作ったものには作られるまでや作りつつあった
ときの様々なプロセスがあって、枡野はいつも自著について、「それごと」
出来る限り読者に手渡そうとしているように私には思える。
「時間」の詰まっている本は、その分だけあたたかい。
私の地元の京都の書店をまわってもなかなか店頭で本書を見つけることを
できなかったが、ふと手にとった人が財布と相談しながら、
一冊一冊買っていくような光景があれば、それがとても似合うような
本だと思う。
洋書一冊贖わんかな 片耳を街路からくる微風に打たせ
正岡 豊
そんな歌を昔書いた。
でも洋書を買ったことなんかなかったような気がする。
◇最後にいくつか本書の歌を引いておく。
瀬尾育生が銀色夏生について書いた文章を、かすかに頭のどこかに
思い浮かべながら。
*法律で裁かれている友達を法のすきまでゆるしていたい
*心から愛を信じていたなんで思い出しても夢のようです
*嘘つきになろうと思う 嘘をつく世界のことを愛するために