玲はる名個人誌「ブルートレイン」1号2号の感想

◇玲はる名個人誌「ブルー・トレイン2号」には、
 広瀬犬山猫(ひろせいぬやまねこ)さんの短歌30首が
 掲載されている。その中に次のような歌がある。


ラブプラス、彼女三人それぞれの名前がなんと「バカ」の二文字。
             広瀬犬山猫


 この歌は次のように変えてはいけないのだろうか。



ラブプラス、彼女の名前みんな「バカ」



◇玲はる名の個人誌、「ブルートレイン」、創刊号・2号を初めてさっと目を通したとき、
 まず感じたのは、自分の書いたものや強い思いで選択したものを、
 ひとに手渡したい、あるいは人の「読む」という身体の行為の中に
 すっと入れてみたい、といった「思い」の強度だった。
 違和感があるとしたら、ここには「仕事」という共通の感覚で共有される、
 「洗練」がないからだろう。
 この「洗練」はおもに日本のコマーシャリズムの中でのデザインがもつ「洗練」を意識
 して私は使っている。
 「洗練」はたぶんその時代や環境での「金銭的価値に還元可能」であることを常に要求
 されるものだと思う。私達が古い雑誌の表紙のデザインなどに、「洗練されていない」と
 感じるとき、それは「現在においてこのデザインでは売れない=価値が低い」と判断する
 からだ。ただ金銭的な価値そのものへの切迫感がある時代や環境、もう少しそれにはおお
 らかな時代や環境というものはある。現在には、そこに確かに切迫感があり、少なくとも
 私は多少の息苦しさをそこに感じてはいる。


◇1号は、江田浩司の短歌、三橋直樹の短歌と文章、玲はる名の小論と詩が掲載されている。
 江田さんの短歌と私の短歌の共通点は、いわゆる「前衛短歌」の文体の「辞の断絶」から
 自由になりきることが出来ていないというところだろう。
 自由にならなければいけないのか、と問われると私は答えに窮してしまう。
 つまり「窮する」ことが私の答えだということになる。




※素裸に巻けるマフラー君の手が野葡萄をつつむように光れり
                江田浩司



 一連は、音楽用語を多用して、男性から女性への情慕を調べにのせようとして作られてい
 るように思える。集中、引用した歌は、江田さんのどこかごつごつとしたいつもの韻律の
 まま、了解可能性のほうへ作品がやさしく開かれているように思える。
 歌会にこの歌が出されていたら、「初句は五音じゃなくて四音のほうがいいと思います」
 と私はいうだろう。


三橋直樹さんは初見の人で、塚本邦雄の文体の影響下にありながら、それなりに浮遊感を
 ポジティブな方へ開くような韻律を持つ短歌作品だと思った。感想を書くとそんな風にな
 ってしまう。こうした文体に現在、「資質と見紛う趣味の必然」というものはあるのだろ
 うか。あるかないかは何が決めるのだろうか。「市場の評価」だろうか。個々人の内的な
 価値付けだろうか。



※炎暑玻璃戸のよそのしじまよあすといふ射幸心にわれは生きつつ
                三島直樹



 『歌人』以降の塚本邦雄は「市井の単語」とでもいうような語をよく一首の中で使用し
 ていた。その成功の度合は、塚本自身によって反故とされた同種の歌でも公開されない
 限り、たやすくはつかみにくい。とはいえ、鶺鴒や致死量という見慣れた語ではなく、
 射幸心という単語を選択した一首を、引用して、感想とすることを許されたい。
 (なんか文章がおかしくなった)


◇同じ三橋直樹塚本邦雄の長い一首評はこの時点まで完読出来ずにいる。
 林和清によれば、塚本邦雄のどんな歌集が好きかと(ある時期までに歌作をはじめた)
 人に聞くと、その人が意識的に歌作を始めた時期に刊行された歌集であることが多いと
 いう。藤原龍一郎さんは、そういわれれば私も塚本では、『星餐圖』を好むというよう
 なことを書かれていた。林和清は『歌人』だそうだ。私は『されど遊星』『閑雅空間』
 だろうか。
 しかしそれよりも印象深いのはやはり評論、「零の遺産」である。これだけ長い評なの
 にあの「前衛短歌運動の最初期」に書かれた論にほとんど触れていないのが、どこか私
 には身を入れて読むことが出来ない疎外感のようなものがあるのだ、たぶん。そうだと
 は思うが、それが現在の塚本論というものだ、と言われたら、そうですか、とも思った
 りはする。


◇続いて、玲はる名の小論。これもちょっと私には完読出来ていませ。ごめん。


◇続いて玲はる名の詩篇
 すべてを読みきったというわけではないので、そこまでで感想を。
 一言で言うなら、「内省的」だな、ということになる。
 「詩」といったとき、それはそれで幅は広いのは当たり前だが、それでもどこかで私
 たちはある程度の「黙契」のようなものを詩に抱いている。文月悠光とジョン・ベリ
 マンを並べて文章を書く人はいないと私は思う。「言葉」は「市場」の中にあり、
 文月とベリマンを並列させる必要のある「市場」はないと思うからである。
 ベストセラーになった、『くじけないで』も、もちろん、黙契というには普遍的過ぎ
 る情感の隣接感を、また「詩」という「黙契」で手渡しているといえる。
 私は「現代詩」という「黙契」の中で書かれる詩作品が比較的好きな人間である。
 玲は、とりあえず「現代詩」という「黙契」の中から言葉を出してはいない。
 悪いとかいってるのではなく、そこにはそこなりの「黙契」を大きく自作する必要が
 あるのかも知れない、という思いのほうが先行する、ということが言いたいのである。
 ただそれはそれとして、色調の薄いイメージで構成される散文詩郡は、書き出しの呼
 びかけとも「詩をはじめようとする場所」とも取れる一行で、それぞれはじめられて
 いるように思える。そこからどの方向へ読者を連れてゆこうとするのか。
 「読者」としての私は、そこにもう少し「快」を期待してしまう。


◇以上で1号の感想を終わる。
 2号まで書きたいが、少し疲れた。
 あとは冒頭の部分だが、あの感想が浮かんだときに私ははじめてこの一文を書き出せ
 た。私はやはり「短歌」です、といって差し出されたなら、ああ、これは「短歌」だ
 ね、と反応出来るものが読みたいなあ、と思っているらしい。
 人に強要するつもりは全くないが、詩の領域は広く、それぞれに「歴史」をもち、「
 冠句」を始めとするついこないだまで誰でもやっていて、誰も知らないうちにほとん
 どの人があることすら知らなくなったジャンルというのも確かにある。
 それでも、それぞれのジャンルなり詩型なりに注がれた「愛情」はあり、私はそれを
 大切にしたいと思っている。


                   正岡