mixi版日記再掲載(3)『新撰21』におもうことなど

◇二回にわけて書いたものを、ひとつにして再掲載します。


◇コメントを頂いた分があり、自分の書いたものだけを最後につけてあります。



--------------------------------------------------------------------------------------



『新撰21』におもうことなど  2010年08月06日07:46



新撰21 (セレクション俳人プラス)

新撰21 (セレクション俳人プラス)



穂村弘の現在にあえてウィークポイントのようなものを
 さがすとしたら、ひとつは彼自身の「単行歌集の少なさ」という点を
 あげられるだろう。にもかかわらず短歌の様々な場所で、
 穂村が大きな存在感を放っているとすれば、もちろんそれは
 彼の歌の読み手としての能力の高さとと表現の真摯さや状況への即応性に
 よるところが大きいことになる。
 とすれば、穂村弘の現在というのは
 「さまざまなひとがさまざまな歌を歌をつくる」
 という「現在」に対応したものであり。もしもさまざまなひとが
 さまざまな歌をつくるという時代がなければ、
 その「現在」はなかった、ということになる。
 これは別に批判としていっているのではなく、
 あたりまえのことだが穂村が「歌壇」と切り離せない
 歌人なのだ、ということを言っているのである。


◇こういう前振りをするのは、『新撰21』の若い俳人たちが
 一様に(またはさまざまに)「肯定」の感覚を作品から
 立ち上らせているとして、それは何を肯定しているのかというと、
 「(いろいろあったが)結局俳壇(のみが)がのこった」
 という俳句の現在を「肯定」しているのではないか、
 と思ったからである。
 別にそうだとしても松山千春の歌のように「苦〜笑いだ〜ね〜」
 と感じるわけではなく、そこからはじまるものがそれなりに
 ゆたかであり、どうみても「俳壇」から少しずれてしまったかにみえる
 夏石番矢がしきりに主張している「世界俳句」からは、
 こうした「ゆたかさ」が感じられずにいることに、
 俳句の不思議な因果の糸車を見る思いがするのである。




◇21人の収録されている俳人のなかでは、
 特に外山一樹と神野紗希の二人を好もしく思った。
 感覚的なものいいになってしまうが、「あ、かっこいいな」と
 思った、ということである。
 年齢を重ねてくると、自分より若い、あるいはキャリアの短い作者の
 作品というものに、おしなべて少し懐疑的になるように思う。
 また「こういうことは俺には出来ないなあ」という感想を沸かせる
 作者の態度や創作の方向の指向は、敬意ははらうものの
 特に自分が読んだり評価したりしなくてもいいようなものに思えて、
 こころの針がそれほど大きくはふるえない。
 そういう意味では、「あ、かっこいいなこいつ」というのが、
 私にとっては結構ベストに近い賛辞だったりする。
 短歌で言えば、斉藤斎藤(であってるのかしらん。この名前キーボード
 で打つのもひさしぶりだわー)や黒瀬珂瀾がこういう感想を持つ歌人である。
 作品が好き、というのとはまたちょっと別になるのだが。


◇神野紗希では、



 コ ン ビ ニ の お で ん が 好 き で 星 き れ い
                             紗希


 という句がいいと思った。
 一連の句作品には、柔らかな抒情性やいやらしくない若干の少女趣味性、
 ばからしさまではいかない青春性が適度にちりばめられていて、それは
 それで好感のもてる作品群ではある。
 掲出句、たとえば川柳作家の森中恵美子あたりなら、


 コ ン ビ ニ の お で ん が 好 き で 旅 終 わ る


 とでも結句をまとめるところではあるまいか。
 川柳というものが入口と出口に設定している「人生」という
 コンセプトへの結句でのすり寄りを、
 この場合私が勝手に想像しているわけだ。
 しかしここで作者の神野が「星きれい」という、多少の
 舌たらずなままの「断言」を結句にすえることによって、
 作者が自分を抱きしめると同時に俳句をも抱きしめるかのような、
 ちょっとした跳躍ににた自愛感を一句に与えることになったと
 私は思う。
 もうちょっと言えば、俳句を抱きしめると同時に「階級」をも
 抱きしめているのだと私は思うけれど、こういう私の言い方は
 他人の共感はさほど得られないだろう。




◇外山一樹は、戦後俳句の一部や新興俳句、ニューウエーブといった
 見慣れた非=伝統俳句陣営の俳句を自分なりに消化するという、
 結構うっとうしいところからスタートしているような俳句の作り手に
 私は思える。
 どうしてうっとうしいのかというと、そうした非=伝統陣営の俳句は、
 どうしてもその作品の「読者」を俳句を超えた場所に想定するかに
 ふるまわなければならないのに、実際にそんな俳句を超えた場所など、
 ほとんどありえないからである。
 ただまあそれはそれとして、必要以上に観念的な「暗さ」に逃げ込むことも
 なく、自分の身体の感覚からくるしなやかさを、自らの俳句の文体に転化
 させるかに、一句一句をつむいでいく、というのは、その風景に危険なまでの
 「未知」が提出される、というのではなくても、私には充分魅力的なもの
 であった。
 どれか一句、というのがとりにくいところは難点で、


 ひ と の 世 の カ ン ナ の 裏 を と ほ り け り


 を私は好むけれども「カンナは見えぬかもしれぬ」という過去の遺産が
 どうしても想起される弱さは否めまい。




◇この書への他人の感想を、私はほとんど見たり聞いたりすることなく
 これを書いているのだが、本書にはたいていの俳人にある
 (と私が思っている)「俳句を書くのが楽しかった時代」を
 想起させる力、というものがあるのではないだろうか。
 短歌をやめてしばらくしてから俳句を書き始めたころ、
 「獏」という雑誌での同期の今井豊と句会をともにしたことがあり、
 「句会やってないと俳句やってるっていう気がしなくてねえ」
 と私がいうと、彼もああ、それはそうかもなあ、と肯定の意を
 しめしてくれた。
 1990年代前半の俳句の空気というのは、まだ確かにそういうものだった
 ように思えるし、それ以降言葉の力で俳句の高みへのぼりつめる
 といった幻想は、俳句からもそれぞれの作者からも
 かなりの部分衰退したかに私には思える。
 ただそれでも、「情熱」という暑苦しい言葉にまでたどりつかずとも、
 そこにある「俳句」に毎日の自分の「生」と「生活」を
 かさねあわすことの、「よろこび」や「よろこびににた束の間のはかなさ」
 が、現在の俳句には地下水のようにあることは確かであり、
 本書はひとつのその具現化であり、証明であるのだろう。
 あと本書刊行以降のことになるらしいが、
 中村安伸くん対馬康子奨励賞受賞おめでとうございました。
 では本稿はこのへんで。









【まさおかさん2010年08月15日 13:06】



こんにちは、中村くん
正岡です。

なるほどツイッターかー。
こんなに流行る前にとったアカウントのは、もうパスワードとか
わかんなくなったのでほったらかしにしていますが、
もういっぺんとってもいいかなあとかもおもいますねえ。




中村くんの「孔雀機械」というのはタイトルもいいし、
選句も「若さ」と「若さだけじゃない」という部分のバランスが
とてもよく取れてると思います。
中村くんの句は私や外山一樹の句がどうしても逃げられない
「なめらかさ」というのからは距離があって、
ごつごつした結晶がごつごつしたままゆっくりと成長していってる
というところがいいんじゃないでしょうか。
ごつごつさ、というのはひとつの武器なんだけど、「武器」というのは
尖らさないとなまくらになっちゃうんでそこが「(自分の)魅力」
でやってるひとよりはきびしいところなのかもね。
北大路さんの


 男 根 が 触 れ て 蛙 が 触 れ な い



というのもいい句なんじゃないかとこのごろ思います。
たぶん彼は「かっこいい」を通り越して「いさぎよい」まで
いっちゃってるんだろうね。
でも2000年代初頭の今、「いさぎよさ」は「倫理的」であることに
ほかならなくって、そういう意味での R-18指定つきの宮崎アニメ
みたいなのがいまの彼の俳句なのかも。
ではでは。



--------------------------------------------------------------------------------------



2012/10/3付記



穂村弘さんは今年歌集が出る、という話を聞いたことがあるけど
 まだなのかしらん。キーボードで打つのも久しぶり、と言う言葉
 が書き付けてあるのは、この直前まで私はまた短歌とも人とも遠ざかる
 ように暮らしていて、この2010年の夏に久しぶりに日記を書き始めたから。




◇もう『新撰21』もかなり昔になったような感じもしますねえ。
 こんなことばっかり言ってるかな。
 この本については俳句関係のウェブサイトでいっぱい触れたテキスト
 があるので、参考にしていただければ。



◇この一文を書いた時より、今は、新しい俳句の世代に対して、
 私はもっとシニカルです。今から20年〜30年ぐらいたてば、
 また「俳句」も変わるんだろうなあ、と自分の生死はともかくとして
 そのころの「俳人」に期待をかけます。



◇それから誰かに聞かれたわけではないですが。
 「折口信夫の別荘日記」という題に深い意味はないです。
 日記を書こうと思いついたときに、ふっと浮かんだだけです。
 また、過去の日記でその日の題と、内容が全く関係ないものが
 多くありますが、あれは、その「題」で書くことが、その日書いたものとは
 別に2000字〜3000字分くらいあったのだけれど、そこまで書く気力も
 時間もなかったためにとりあえず「題」だけ書いたものがほとんどです。
 例をあげると「これは先生、お厳しい」という言葉は角川源義の随想に
 出てくる、富安風生へのもの言いですが、その日の日記では触れていません。
 これからは普通に題をつけます。



               正岡