mixi版日記再掲載(1)抒情のポジション-同人誌「町」4号評

mixiだけで日記や短歌を書いていた時期があり、サイトにのせた
 「アマポーラ」もそのときの作品です。
 こうしたblogとの差は、やはり「検索」にひっかからないということだと
 私は思っています。少し時期的には過去のものになりますが、その中から
 書評っぽくまとまっているものを随時こちらに転載してゆきます。
 末尾に現在からの思うところも書いておきます。

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★抒情のポジション-同人誌「町」4号評★   2010年12月29日15:08

◇何かを作る、書くときひとにはそれぞれ固有のポジションがあり、
それは時代や環境と、作る本人の関係性によって決定される。
 とはいうものの、「時代」だの「環境」という単語の概念も、それ
自体が大きく「時代」や「環境」に左右されるわけで、そういう意味では
最終的には「関係性」という危うい言葉だけが「固有のポジション」を
決定づけるのかもしれない。
 2010年に20代の中間ほどの年齢であること、同人誌「町」の集団の特性
を私が一言でいうとすればそのことにつきる。
 短歌や俳句、別に現代詩でもよいがそういうものが「ジャンル」であった
のは少し昔の話で、今は「ジャンル」というよりはそれらは「ソサエティ
と「ジャンル」の曖昧な混合のようなものとして、特に若い世代には認識
されているように私には思えてならない。
 先験的に「短歌」というジャンルなり「定型」があるのではもはやない
のだろう。
 共有とも共感とも言い難い柔らかな感受性の束のようなものに、若い世代
の書く歌は大きくくるまれている。
 それ自体がいい悪いというものではない。
 ただ短歌の韻律が孕む(あるいは孕んでいたかに思われた)過度の危険性
というものは彼らにはない。
 自己実現と自己確認が重ねあわされながら指し示すあえかな「希望」とい
うものを目指している。それが現在の若い世代の歌だと私は思っている。

◇ということで、「町」4号である。
 本号は表紙も内容もそれまでの号とは違って、白黒と文字(短歌作品)のみ
で構成されていて、それまでの号の錯綜したパーティーのような雰囲気はなく
なっている。そのかわり本号は、販売価格をおかずTAKEFREEの無料配布
版になっている。
 そのことの是非はともかく、「変える」ことは悪ではない。
 「雑誌の連続発行形態に組み込まれた解体しきった読者の残像」と彼らが決定
的な戦闘を挑もうとしているか、は別として。
 では各作家たちの作品評へ移ろう。

◇土岐知浩「ever green」

 若い世代の男性の短歌の韻律はどこかものさびしい。
 充実したり幸福であったりすることがかえってマイナスのように感じているから
だろうか。
 秋葉原へいって人殺しをするような人間のほうが、どこか「自分より上」の存在
と感じているからだろうか。
 私はもう若くはないのでそれはわからない。


*冬の森の向こうに山が見えていて耳をすませば悲しいばかり

*まるでそこから浮かびあがっているようなお菓子のそれでこそビスケット

*古き良きものは悲しく僕の手に馴染まない種子島のはさみ


 韻律に幼さが垣間見えるのはたとえば「冬の森の」で二つ目の「の」、必然性にいささか欠ける
六音のふくらみのせいだと私は思う。ここで作者が「冬の森」で切らなかった ことは私にはよく
わかる。もっと縮めれば岡井隆の、おれだって冬森だよ、といった 一首に彼の歌が近づき過ぎて
しまうからである。
 そして、読む者は、「うーん、わかるけどほんとにそんなに悲しかったのかな?」
という疑問のうちにこの歌を読み終えることになる。
 二首目は私の言い方で言えば長嶋有的な真剣さへの違和感や技巧的なそれへの回避
とでもいうものが「それでこそ」という一首の眼目的な部分に充填され、ある意味で
はされ過ぎていると感じられる。
 私は今、他人の歌を読むとき「解放されたい」と思っている。
 そんなに私は解放されていないのか、というのは私にはわからない。
 しかし「決定的な選択」を自らに課しながら課した自分のままでなお「それからの
解放」を願う、というところに、私は短歌を書き読むことの大きなチャーミングさが
あるように感じる。
 そういう意味では一見古典的でNHKの『美の器』でもみて作ったんじゃねーの的な
発想の三首目を私は好む。「悲しく」が多少安易に見えるのはしょうがないがこれは作
者が歌を書くときに速度にむしろ起因する。
 私に言えるのは確かにこの歌は「種子島のはさみ」でなければだめだろうな、という
確定性で、またこの歌の一首内部での一人宴性が、「道具」としての「はさみ」とよく
あっているような気がする。「はさみ」を集団で使うのは、子供のころの図画工作の授
業とかそんなものであろう。もともと「はさみ」はひとりで使うものであり、今は文房
具にも近いけれども昔は「民具」である。
 そんなもんなじむわけねーじゃん。
 土岐知浩は「師」を持っているのだろうか。
 あったことも関係をもったこともない私にはわからないがぺったりとした生活の叙景
の歌からは離れたいと思って歌を作っているように感じられる割には、過剰なまでに「隙」
を排除しようとする意志がいまひとつ希薄に感じられるのは否めない。
 現実の読み手はいつでも自分が思うよりは点が辛い。
 その「辛さ」に耐え、乗り越えようとする者だけが、成長する。
 教条的なものいいになってまことに申し訳ないが、結社内部の短歌作家たちは結構その
ことを意識無意識にかかわらず体感している。
 そのことをさらに意識して作歌しつづけてくれることを願う。


◇瀬戸夏子「『奴隷のリリシズム』(小野十三朗)、ポピュリズム、「奴隷の歓び」(田村隆一)、
 ドナルドダックがおしりを出して清涼飲料水を飲み干すこと」


 瀬戸の新作は、ディズニーワールドに潜む「かわいらしさ」への欺瞞性と、高校生の時に
穂村弘の『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』を読んで短歌に目覚めたといった
世代的な「君臨性」にもとづいた韻律のミックスジュースのような味わいの一連に仕上がっ
ている。

*海や朝にはあいさつがなく わたしたちには殺人ばかりがあると サンタクロース

*母や父が怒りからはみだす ゆっくりとレベルを上げる いい人を殴る

*かけがえのない無実の罪で、筋肉の 光の充実 ポップコーンといもうと

 「海や朝」といったきれいなものやロマンに対して言葉の世界では私は疎遠だという
自覚と、関係性のテンションが最も高く感じられるのが「殺人」だというようなメディ
アによってなかば作られたと感じられる世界が、サンタクロースに代表される「ギフト
=贈与」性として意識されるという瀬戸自身の感覚が、一首目では適度な毒とともに
提出されている。一首は瀬戸独特の「長律」の(しかし実際にはこの歌はさほど長くは
ない)イメージの韻律によって構成されている。
 そこに「女性」が「現在」を生きることの切実さ、が同時に重ねあわされている、と
感じるのが、私だけなのかどうかは、あんまりわからない。
 穂村弘が『手紙魔まみ』で提出した短歌の解体や破壊の先で、何をすればいいのかを
肉感的な切実さで考えているのは私には現在瀬戸夏子ただ一人のように感じられる。
 だがだから瀬戸夏子はえらいのか、というと別にそんなことはない。
 それぞれの歌の詠み手はそれぞれの人生や生の実情に基づいて自分の短歌を書いていく
ほかはない。
 「評価」は課題そのものの価値ではなく、あくまでも結果としての達成感によるといっ
てよい。
 それでも、彼女の短歌の韻律の、自由律でも新短歌でもないところからくる韻律の斬新
さや、読む人を暴力的な解放感のもとへいざなおうとする声調の手触りを私はとても好も
しく思う。
 ないものねだりはもし彼女の子供時代に近所に別所真紀子のような人がいて、**五世
襲名云々といった現在の短詩型のアナクロニズムでありながらそれはそれでかけがえのな
い詩的価値観を彼女に叩き込んでくれるものがいなかったことだろう。
 だから彼女の歌には「現在」という巨大なブティックをほんとうの一着を求めて泳ぎ回
っているような浮遊感とその無為の行為へのかすかな悲しみが感じられる。
 「いい人を殴る」のは彼女にだけ許された「特権」である。
 そして三首目の「いもうと」には実際に彼女には「いもうと」がいるのだ、という事実
を知る者にしか伝わりがたいという、短歌作者ならだれでも武器でもあり罠でもある読者
と作者の近親性へのもたれかかりがあるのである。
 彼女の歌に大きなひまわりのような「大開花」がもたらされるのかはほんとうに神のみ
ぞ知るところである。
 ただ私は、そこにひとつの現在の短歌の「希望」があると思えてならないことだけは、
ここに記しておく。


◇吉岡太郎 「No Maouth」


 吉岡の短歌は私にはよくわからない。
 だからここは省略してもいいのだが。

*そこらじゅう凌辱死体の廃駅へ安らかに冬の帳がおりる

 今回の「町四号」の吉岡の作品はある擬似的な人格をもとに一連が構成されている。
 というか、吉岡はたとえば笹公人と似ている作歌基軸の持ち主で、短歌の韻律と内容の
フィクショナルな乖離を生き続けるほかにはなにもない(ただフィクショナルであるゆえ
の読者がわの受容を期待できる)短歌の作り手なのではないか。
 正直に言えば私にはそこにはほとんど興味がない。
 自分の好みにあった何かがあれば、読んでにやりとするだけである。
 引用歌はそういうものである。


◇服部真理子「スカボロー・フェア」

 服部の短歌の「学生歌人っぽさ」はどこからやってくるのか。

*ゆるやかに蔓からめあう昼顔の まひるの丘を超えゆく人よ

*きみの着る簡素な服に桃の汁したたりこれが夏だったのだ

 石原裕次郎の若いころの映画のアップトゥデイトのようなこれらの歌の雰囲気からそれ
はやってくるのだろうか。
 ひとのことは言えないが、歌は所詮は「言葉」である。
 しかしそれをネガティブにとるかポジティブにとるか、また、自己実現の手段にとらえる
か人生の夢のようなものにとらえるかは、それぞれの作り手にまかされている。
 そういう意味では、服部の短歌にはまだそこが未決断なのだろう。
 短歌株式会社に就職しました、といった覚悟なり欺瞞の呑み込みなり、呑み込むことの果
てに真実があるというまやかしでもなければ虚飾でもない場所へまだ彼女が踏み込んでいな
いといった感覚を服部の歌がもたらすところにその理由はあるのではないか。
 ただそれはそれで私はいつもいうことで多少ばからしい気もするが、悪でもなければやは
り善でもない。
 一首目が韻律に流されて具体性や現実性に欠けるところは否めないし、二首目の独断が圧
倒的で普遍的ななにものかへ到達しているとは言いがたいのも否定できない。
 ただ好もしさは、それでも「見たまま」を歌うことへの本能的な抵抗感が、一首一首のな
かでたからかなトランペットのように読む者に感じられることだろう。
 誰でも綺麗ねといわれたら喜ぶだろう。
 しかしそこにいささかの欺瞞でもあれば激しい怒りを感じるのは、別に女の子の特権でも
なんでもない。
 でも世界はお世辞に満ちている。
 そこなのかそこでないのかはわからないが、服部がより自分の深みにたどりついたとき、
彼女の歌から「学生歌人っぽさ」はなくなってゆくのではないか。
 俳人の江里昭彦の初期の俳句のようなこの一連の掉尾の次の歌には、そういうものへたど
りつこうとする彼女の欲動が感じられるといえば、ひとは笑うだろうか。

*光・・・と言いかけたまま途絶するアオスジアゲハからの交信


◇望月裕二郎「うんともすんとも」

 文体が先験的に「口語」を選択する、というタイプの短歌の作り手がいて望月はそういう
タイプの詠み手ではある。
 という書き方をするのは、私は結構こういうタイプの歌は苦手だからである。
 永井祐とかもそうである。
 ところが、歌壇の外へ出て、佐々木あららのような歌になると、私の好悪は逆転する。
 佐々木の中で出すか外で出すかといった歌は実は私は好きなほうなのだ。
 このあたりは単純に高校生ぐらいに岡井の『土地よ、痛みを負え』のようなものが「歌」
なのだとインプリンティングされたか否かというただそれだけかも知れない。

*ちるようにあるくわたしは犬としてじぶんの命をじぶんできめる

 ただ、こういう歌に展開されている、口語系の「一行詩くささ」というものを、今はほとんど
私以外にはわからないような時代であると思う。
 そういう意味では望月も「時代の子」であることには違いないが、だからどうしたとかいうと
あんまり私にはどうしたもこうしたもないというか、ごめんとあやまることでもないが、少しだ
けおもしろがれなくてごめんなーといいたくなるところもある。
 吉岡に対してはそれはない。

◇平岡直子「卵と檸檬

 平岡の歌がどこかなつかしいのは、彼女の歌がいつも古典的な「相聞歌」
の表情を帯びているためである。
 とはいうものの、「相聞歌」というのはいわゆる「絶唱」の世界であって、
それはこの「その日暮らし資本主義」的な時代にはそれなりの変成作用を
おびる。


*スーパーにいる恋人を目で追えばまるで観賞用の魚だ


 などはそのちょっとした「スーパー」のチープさにおいて、倉田比和子
の詩「スーパーオリンピアからはじまる」などとは決定的な距離感がある。
 また、彼女の瀬戸夏子作品への敬慕が感じられる、


*春といえばワンピース。ワンピースといえば夏。夏が終われば秋


 などの歌は私には好ましいが他の人にはどうだろう。
 しかし以前にも書いたが、平岡には、31音の定型の中で、言葉にやわらかい
湿り気をおびさせながらなおかつ過度に垂れ下がらない洗濯もののような、
やわらかさがある。
 私はそれを好む。
 一冊の歌集にまとまったときには、それは思いもおよばない編曲のよう
に、彼女の歌に重層的な響きを与えるのではないか。
 語彙にせよ素材にせよ、今より安定感は欠けるとしても、とんでもない
ものを歌ってみようとするときそれはまたあきらかになるのではないか。


 以上、次号は来年六月だそうで、また好もしい光景を見せてくれること
を期待しています。

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<2012/9/30付記>


◇同人誌「町」の感想は、「町」の同人の方たちはコピーして読んでいただいた模様で
 mixiで書いたとはいえ、そんな風に読んでもらえればそれで私は満足でしたし、今もそうです。


◇このあと同人誌「町」は5号を出して、終刊。5号は私にはちょっとぴんとこなかったですね。


◇同人の平岡直子さんは、その後「歌壇」の新人賞を受賞、服部真理子さんは短歌研究の新人賞の次席
 と、他の方々も含めてその活動の足跡を伸ばし続けているみたいです。

◇いま書くと、もっとクールな書き方になるでしょうね。この文章は二年ほど前ですが、
 私はもうあまり「今の若い世代は」とくくるような書き方をしないと思います。
 それほど短歌を大量には読んではいないというのが大きいですね。

◇服部さんのところで言及している江里昭彦の俳句は

 個として在(あ)り 展(ひら)いて 光に喪う  江里昭彦
       句集『ラディカル・マザー・コンプレックス』より

 という句集掉尾の句です。
 あと倉田比羽子さんは今年現代詩文庫の詩集が出て、手に入れやすくなりました。
 「スーパーオリンピア」が入っているのかは知らないのですが。

◇ということで。「町」に関しては他の号のも書いているのでそれもまたアップします。

         正岡