あと二週間

◇かなり前に兵庫ユカさんから歌集『七月の心臓』を送っていただいた。
 ありがとうございました。
 そしてちょっと前に、その『七月の心臓』の批評会で配布された小冊子、
 「七月の心臓の栞」を島なおみさんから送っていただいた。
 レイアウトも綺麗な、大判薄手の瀟洒な冊子です。
 これもありがとう、ありがとう。
 とはいえ。
 歌集『七月の心臓』というのがこの感想がまた書きにくくって。
 とりあえず初読時に付箋をつけたのはこんな歌です。


*鳩尾に電話をのせて待っている水なのかふねなのかおまえは


*無いならば無いでいいのに きみが見るわたしのなかの細いひまわり


*求めてもいま求めてもでもいつかわたしのことを外野っていう


*焦燥をよいこととしてあのひとはわたしの空に桔梗をくべる


 これだけではないですが。
 さて、兵庫さんの歌は
 いつかの歌葉新人賞の候補作とかで読んでいたはずなのですが、
 歌集で読むとかえって何かが薄まっているような気にはなりました。
 それとこれが書きにくかったわけですが、あんまり「短歌に見えない」という
 読後感が湧いてくるのですね。
 数年前に、「ミッドナイトプレス」の誌上で谷川俊太郎正津勉枡野浩一の鼎談が
 ありました。そのときに谷川さんが、
 短歌というのは、これが短歌だ、とか、短歌じゃない、
 と言えるのは「うらやましいというかさ、すごいみたいな感じがしちゃう」と
 言ってて、ああ、言う言わないはともかく自分もそういう感覚は持っちゃうなあ、
 と思ったわけです。
 ただ、別にそういう自分の中の短歌の「枠」の中にないような感じがする短歌作品、
 というのはほかにもたくさんあって盛田志保子さんの短歌なんかも私には
 そういうものですね。
 それでいろいろ考えてたわけで、たぶんこうではないかと思うことが
 二、三出てきたのでそのいくつかを書きます。
 ひとつめ。
 たぶん、私の、1962年生まれで、ほぼ1980年前後からの現代詩や短歌に慣れている
 ものの目から見ると、兵庫さんが歌を作る、または作り込む過程において、
 「短歌」と「詩」の間に明確な線が内的な部分で引かれていないのではないか、
 と思えるのです。
 短歌とは何かとかいう話は出来るだけさけたいのですが、
 (単にめんどくさいから)
 ひとつには「追従の詩」ですわね。
 日常として候文を毎日使用してるわけでもない人間が、
 短歌になると「あり」「おり」と
 言った語を作品内で使用できて、読者も読者の経験の集積としての短歌のパタンから
 大きく逸脱しないうちにおいて、その古語を「現在」のものとして受け取れるのは、
 たぶん、それが「先行するものへの追従」としてあるからだとぼくは思います。
 ただ、「追従」というものが、「教育」とか「教養」とか
 (あと「師弟論」とかもろもろ)
 とかなり混ざり合ってわかちがたいものとしてあるわけで、
 そんなに単純化してよいものではないだろう、とも思うのですけれど。
 自分の話でなんですが、私も基本は、短歌は「あり」「なりにけり」といった古語を
 使用するものとしてあるのですね。
 ただあんまり使いたくないわけです。
 だから、私の歌には構文の途中の「***に****を」と言った「を」止めや、
 体言で止める歌が少なくないのですな。
 兵庫さんの歌に私があまり「短歌」を感じない、とすれば、たぶんここの「差」で、
 主に韻律における幻影への追従、というようなものが、彼女の歌にはあまり
 ないからでしょうね。
 それは個人的な嗜好というよりは、私の考えでは世代的なもので、
 いい、悪い、というものではないですが、ただし、歌を「書き続ける」ことの中に、
 それを「良い」という価値付けがなされていかないと、
 書く方はつらくなっていくだろうな、と思います。
 まあそれも、それはそれでいいといえばいい話です。
 ただ思うのは作られた作品にはそれが「短歌」であったり「詩」であったりすることの
 差は明確なのでしょうが、内部の欲動とでもいうものにおいては、
 これも世代的なものだと思うのですが、ほとんど差はないんじゃないでしょうか。
 もちろんそれでも、一番自分の書き付ける言葉としての「手触りの感触」が、
 フィードバックされる形式、というのは、自分でかなりの強度や確信を持って、
 選択してると思うのですね。
 たぶん、読者としてはそこ−作者の「手触りの感触」のフィードバックの感覚の強度−を
 持って、一首の「価値」を見いだすほかはないんでしょうね。


◇とはいえ、引用した一首目の「鳩尾」の歌は、電話をのせているのが「対象者」なのか、
 「自己像」なのか、曖昧に感じられる、というところは、「歌会で人の目を通す」という
 感覚が発想の内部にまで根を下ろしている、といった作者ではない、
 と判断される要因になると思います。
 そういうところは「短歌」のややこしいところで、ではこの作者はどの読者の「層」や
 「群」に向かって歌を作っているのか、という疑問を読者にわずかながら浮かべさせて
 しまうわけで、そこが私には「音が混じっている」ような感覚を生じさせます。
 たいていの歌の作り手は、
 いったん「短歌の読解の経験の堆積」の方へ向けて歌を作り、
 そこを通過してなおかつ「一般」の方へ放っているのだとぼくは思います。
 一般へ届く届かないはまた別の話ですが。
 「詩」はややこしくないのか、
 と言うと、異論はあるでしょうが、その詩が平明なり簡素なりであるか、
 そうでないか、でとりあえず読者はまずその詩が誰に向かって
 書かれたものであるかをかなり即座に「判断」して、あとはその読者の「嗜好」に
 よって読まれたりそのまま閉じられたりするものではないんですかね。
 で、色々考えると、私は私で「昔の人」なので、
 1980年代初頭のややこしかった時代に、
 ちょっとだけ歌を作ってやめていった人のことを思い出したりします。
 「広大短歌」の野村さんという女性のうろおぼえの歌ですが
 「*****つうっと横切る−−−とたぶんついてしまった草花の種子」とか
 宮坂いずみの
 「油蝉鏡にとまる逢魔が時 うつむきかげんに履く靴下」
 とかですね。
 彼女たちの歌のどこか息苦しかった不自由さは、兵庫さんの歌の
 あまり楽しくなさそうに見える自由さ、と対になってるのではないか、とか。
 ただ自由さはそのままに、楽しくなさそうに見える部分は部分で
 努力によって振り払えるはずで、
 それが振り払われた言葉の固まりを、今ひとは「リアリティがある」
 といってるように私には思えます。


◇で、買った本
*『世界の合言葉は森』 アーシュラ・K・ル・グゥイン ハヤカワSF文庫
*『現代中国詩集』  北島 他  海外詩文庫7 思潮社
*『日本の文学52尾崎一雄・外村繁・上林暁』 中央公論社


 あと「週刊ポスト」に大塚英志が先日のマリー=ロール・ライアンの本の
 書評を書いていてびっくり。
 また今日の公明新聞に茶木則雄が今年の本のベスト3をあげていて、
 本屋で平積みしてた佐藤多佳子の『一瞬の風になれ』を「親にも子供にも
 老若男女に問わず読ませたい第一級の青春文学」と書いてあったが、
 ノッてみてもよいものやらどうやら。あとの二冊は
 カルロス・ルイス・フォンサイス『風の影』と笹本稜平の『不正侵入』。
 笹本さんて「アリエル」とか書いてた人? 違う? 自分で調べろ?
 そりゃその通り。んでは。