百花百獣譜


◇読んだ本&読みつつある本


*『友達ニ出会フノハ良イ事』 矢部雅之 ながらみ書房
*『瀬尾育生詩集』 現代詩文庫107 思潮社



 職場の近所の東生駒図書会館という生駒市の図書館は、自習席もない
 どちらかといえば公民館っぽい図書館なのだけど、
 短歌の本は県立の図書館よりもちょっとそろっていて、
 岡野弘彦の『バグダッド燃ゆ』とか松木秀の『5メートルほどの果てしなさ』
 とかもはいっていたので、お休みなのでちょっとそこまで。
 先日書名だけ書いた、塚本邦雄が詩文の部分を担当した日本建築の写真集
 (お値段30000円。装幀は杉浦康平。)「建築紅花青鳥図」も、奈良では
 ここのみ所蔵していた模様。標題の「百花百獣譜」というのはその文の
 部分の題でございます。短歌も20首くらいかな? はいってるんだけど、
 80年代ごろの塚本さんのインパクトの弱い豊満美学系の短歌という感じです。
 まあその歌文自体は、どこか別の本にでも入れてるのかも。
 でも行ったら岡野さんの本は貸し出し中、あといくつかの歌集も貸し出し中
 だったので、とりあえず矢部さんの歌集を一読。
 これは普通におもしろかったですね。
 殺人事件の起こらない、横山秀夫の濃いめの小説のような感じです。
 メモして来た歌をいくつか。


*成熟をよそほふ爪のはつなつのあんずの皮のごときあはさよ


*頬ばればほのなまぐさくほのあまく愛国心のごとき雲丹かも


 「歌がそこにあればそれでいい」などと思ってる人がいるかどうかは
 わかりませんが、実際にはなかなか完全に無名人として短歌を書き続けていく
 ことというのは「価値付け」や「意味づけ」からも無縁となることで、
 それはそれで不可能に近いことですね。
 だから、歌を作っていくことにどのように「価値」や「意味」を
 つけていくかが歌を作ることになってしまうわけで、
 それは歌を現実に書きつつある「自分」というものの「価値」や
 「意味」を問い続けていくことになるわけです。
 しかしそこで、実は「自分」というものの「価値」や「意味」が
 問い続けられる「部類」なり「ジャンル」なりであるなら、
 そこは別に「短歌」でなくてもよいのではないか、ということも
 設問としては成り立つわけで、「成り立つ」という「本末転倒」を
 いかに「歌でなければいけない」という「本末究竟等」に変えていくのかが
 問われるとも言えるわけですね。
 そういう意味ではおおらかななかに繊細、「食」へのこだわりをはじめとする
 佐佐木幸綱からの影響、「生きているものは生き続けるべきだ」という命題の
 実感化、というのがかなり力強く構成上にあらわされていて、
 いい本なんじゃないでしょうか。
 ただそういうやり方はどうしても一種の後衛を支える、という感覚を読者には
 与えるわけですが、
 前衛であることを禁じられた前衛短歌みたいな世界社会素材詠に
 関心がある程度生じる今は、そこには確かに誠実さはあるように思えます。


◇ということで買っておいたけどほとんど読んでなかった瀬尾育生ですが、
 なんともう来年は59歳になるみたいで、さ来年には還暦詩人ですなあ。
 (この詩文庫は初版1993年。)
 遠い昔にまだ南都書林が友楽会館下で営業してて「エピステーメー」の
 バックナンバーフェアとか今のジュンク堂みたいなことを
 20年ぐらい前にやってたころ、
 『らん・らん・らん』を買って、あと当時の弓立社の本にはさまっていた、
 「弓立社通信」かなんかで、本の実売と返本の律を折れ線グラフにしていたものを
 見てよく顔を引きつらせていた若い頃の私でした。
 ちなみに先日引用した「油蝉」の歌の宮坂さんは東京に出てすぐのころ、弓立社
 バイトとかしてたらしいです。
 とはいえ、その詩集も歌をやめたときに捨ててしまって、
 ここ二、三日読み始めている次第です。
 収録されてるのは1992年以前のものだから、
 今読んで何をどうというのは言い難いですが、
 現代詩における「非スポーツ性」というんですか、
 (いいかげんなものいいですなあ)
 決して盛り上がらないところで何かを追求しようとする意志、というようなものは
 感じられるようで、そこは、惹きつけられるものがあります。
 先日「杉」の編集をやめたとか聞いた上野一考さんとか、
 あるいは山西雅子さんとか、若い頃に(私から見て)かなり強い意志で
 現代詩を書いていた人が俳人と化していったのを横において見ると、
 詩を書き続けるというのは やはり何か特殊ではあるような。
 詩人論の部分にはいってる橋爪大三郎さんによると、(瀬尾さんは)
 若い頃は年中詩を書いていて、詩人になりたがっていた、とあって、
 おれは歌人になりたがっていたのかな、いたんだろうなあ、と
 自分を振り返ったりはいたしますね。
 この橋爪さんの文章には、「生来の性癖によって」わざとややこしく書き換えない
 と気がすまないというのがたとえば瀬尾さんの詩だ、という意味のことを言ってます。
 「生来の性癖」というのが素敵な言い方ですね。


◇「アソシエ」5号 上野千鶴子足立眞理子対談より


上野◎私が今大学の授業で学生さんにもっとも悩まされているのはこれです。
   彼らは歴史に起源と目的を求める。学問にも目的を求める。彼らにとって
   真理という言葉は強迫観念になっています。真理のためでなければ学問は
   なんのためにあるんですか、と二0歳そこそこのガキが私に言うんです。



   方丈の大庇より資本主義


   海に出てマルクス帰るところなし


   帝国主義抱き起こされしとき見たり


   フェミニストガバリと寒い海がある


   家父長制家父長制秋の夜の漁村


   東京の南に低き福祉国家かな(うーん字余り)


   スピヴァクのスピのあたりが火事ですよ


   労働や見ればまわりに雪が降る



◇買った本


*「小説トリッパー」 2004/秋号
*『辻邦生作品 全六巻−3』 



 奈良のコトーモールのドトール辻邦生の本の中の短編「献身」という
 のだけ読了。安原顕が、辻邦生を高く評価してたのがいつまでたっても
 よくわからない。
 週刊朝日豊崎*大森今年の本のベスト10対談。
 伊井直行の『青猫亭−』のみ雑誌掲載分で読んでいた。
 あれでいいんだったら夫馬さんの「家長期」とか(以下略)。
 毎日新聞夕刊では短歌俳句の今年一年の総括をいつもの酒井さんが。
 もうすぐだなー今年の終わりも。