紀伊國屋書店出版部「scripta」の感想
<『scripta』(スクリプタ) 紀伊國屋書店出版部 No.1.2.3.9以外の
No.1〜No.25号>
◇ツイッターでも書いたが、京都のアバンティ六階の書店で、
この冊子の最新号を、袋に入れてもらった。
出版社の広報誌というのが好きだから。
「波」や「本の窓」みたいなものかと思ってたら
かなり違う。
平出隆の文章はフォントを落として段組の天地も落として
あるし、木皿泉のエッセイは、この方たちのものを印刷で読むのは初見だけど、
「ネタ消費」(ブログなんかを書くためのネタにけっこう
お金を使うこと)について書き始めて、
さらり、と現代を生きるもののミョウガみたいなささくれについて、
やわらかく語るこれは三段組。
平出の、ハイカルチャーな感じも、木皿のホームタウンだけれど、
グランマ&グランパ的な微妙な「ひと」へのクールな視線も、
とてもよい。
森まゆみの文章は、いつもながらの歩行と探索が静かな静かな興奮と
ともに語られる、「お隣のイスラーム」という好文章。
三段組で天地に帯の地模様。
このさっぱりとした雰囲気ながら、気持ちのよい編集の技は、
ただものではありえない。
「sumuus」とか、リトルプレスの冊子とくらべても
てらいのなさがはんぱではない。
(でも三月書房で売ってる「sumus」はほとんど買いました。)
バックナンバーが読みたくなってサイトにあたったけど、
あまりよくわからない。
冊子の奥付のところに電話をしてみると、
もらった本屋になかったら、バックナンバーを無料で
送ってくれるという。
さすがに驚いたが、とても良い雑誌だと思ったので、編集の人に
そう伝えてください、と言って切ったのが昨日の2時ごろか。
朝の八時半には、もう届いた。
二十冊ほどあった。
封を開けて、執筆者の確認をはじめた。
朝ごはんを食べたり、少し雑事をしたりしながら、
お昼ごろまで
(現在膝を痛めて休職中なので)
読みふける。
◇森達也が、小説ともドキュメントともつかぬものを書いている。
内堀弘が「予感の本棚ー戦前の紀伊國屋書店」という題で、古書や古書店や
古い時代の出版をめぐるエピソードを書いている。
都築響一も、自分の「近傍」から、好書を紹介している。
それぞれの文章については、20冊もながめたあとでは、
簡単に書けない。
おもしろい。ああ、黒木書店。ああ、アサヒグラフ。カブで青山ブックセンターかよ!
とか、声に出る。
しかし、嬉しいめまいのようなものはそこからくるのではない。
2012年において、こんな「編集」をこんな広報誌という枠組みの中で、
実際やっている人がいる、というところから、それは来る。
松岡正剛の「千夜千冊」は確かにおもしろいし、文化価値もあるといえば
あるだろう。
しかしあのように高価な装幀本として出すのはどうなのだろうと、
私は思ってしまう。
別にこの冊子はものすごく珍しい人を集めているというわけでもない。
私が未知の人も多いけれども、それよりも、たぶん編集の人の、
この人に原稿を依頼して、こういう冊子にしてみたい、という、
選択の意識、またそのレイアウト、
(カバーでも表紙でもなく、本文のページを一番大事にする、か
一番考える、か、と言ったのは、菊地信義である)
も含めて、が、とても素直に、見えてくる、その感覚。
私は、
とてもきれいな天からくだる一本の親指ほどの太さの水の柱のように感じた。
◇個々の文章については、長い連載はそのうち本になるだろう。
日を変えて、この日記に書くこともあるかも知れない。
枡野浩一の『ドラえもん短歌』についての、木皿泉の一文は、
「みんなドラえもんの道具なんかなくていいって言ってますね」
というのをすっと導き出すところに、あっと思った。
昔古本屋で、剣道の「型」や「修練」を短歌形式で全部述べた
本を見たことがあった。
塚本邦雄の本をそれなりに読んで来た人は、かなづかいの
「い」と「ゐ」の使い分け等を覚えさすために作られた、
なんとも奇妙な「歌」をどこかで見たことがあるはずだ。
短歌の作り手の私は、極限までの短歌形式の可能性の発露、などを
つい考えてしまうのだけど、短歌形式そのものは、ただの
57577の言葉の連なりとして、普遍化されてゆき、
そこでまた、すくい上げられることが出来るものが、すくい上げられてゆく、
ということなのかも知れない。
黄色い表紙の「scripta」最新号は、
大型書店等、置いてあるところには、まだあるでしょう。
私みたいに余計なことは考えなくても、
珈琲飲む時の目の楽しみには、十分なだけの何かはあると思います。
正岡@(もう五時だぜベイベー)