夕べの祈り


◇読んだもの
*「沖で待つ絲山秋子 (「文藝春秋」2006/3月号版)
*「残光」小島信夫 (「新潮」2006/2月号版)
*『夷狄−バルバロイ城戸朱理 思潮社
*『眼鏡屋は夕ぐれのため』 佐藤弓生 角川書店


 「沖で待つ」は案外とあっさりした話で、この作者なら「逃亡くそたわけ」を
 読むべきなのかも知れない。雑誌にはこのときの芥川賞の選評が載っていて、
 村上龍がこの間私が読んでとってもおもしろかった佐川光晴の落選した候補作の
 こと「だけ」を賞賛しつつ語っているのが目を引く。
 ここしばらく人気のあがってる感じの小島信夫の最後の長編は、
 300枚かと思ってたら400枚もあって、結構長いがなんとか読了。
 さっぱりわからないという感じもしないが、保坂和志とかが
 賛する理由は人に聞かれてもはっきり私は言えません。
 城戸さんのは買って長い間置いてたもの。
 詩歌というのは永遠性へ向かうようで、実はかなり「旬」のもの
 だったりして、今頃「青梅」や「GIGI」を初読しても
 そう感動するとは私には思えない。
 1998年刊のこの城戸の詩集も、戦後詩の知的な叙述や文脈の
 転換や不整合さに、なけなしの形而上を盛り込もうとしたもので、
 それを脳天気と呼べるほど私は偉くもなんともないような気もする。
 かといって戦慄する一行や詩句があるかというとそうでもないが、
 「それでも私はある単純さからは離れて、詩を書いてみたい」
 という欲求には、それなりに必然はあるように思える。
 佐藤弓生さんの歌集は、かなり前にいただいたもの。
 佐藤さんどうもありがとうございました。
 短歌の世界には「女の子」の匂いのする歌を書く人が、
 時代と併走するようにどこかにずっと居続けてるという
 気はします。それがなんなのかは僕にはわからないけれど、
 そういう男性からの照り返しを受けて輝く女性の言葉の
 歌といった感じの作品群。第一歌集よりははるかに好ましく
 感じられる歌が並びます。とはいえ、拒絶による作者の自己の屹立と、
 共感による読者への慰撫とでは、あきらかに後者の歩合が高い作風ではあり、
 そういう意味では私が歌を書く人に「求めてしまう」作風ではないですけど。
 でも今「拒絶による自己の確立」なんてしようと思えば、
 現存する文化総体の全てを「敵」に回すというような態度の中にしか
 生じないようにあたしは思うんですけどー。
 といわれたら、うーん、それはそうかもねー、
 といってスーリールダンジュのケーキでも勧めるしかないんですけども。
 付箋をつけた歌をいくつか。


歌集『眼鏡屋は夕ぐれのために』佐藤弓生 より


*雨はなぜしずくのかたちはらはらと春のあなたをうつくしくする


*はたはたとはかなし冬の陽のもとにヘリコプターは空の心臓


   (退屈な冬のヘリコプターが来る/駿河静男 という俳句を
    思い出しますな)


*人類のうたげのはての燭台をめぐれくだもの遊星のごと


*夜の指あるいはヤモリ金星ののぼるかなたへななめに去りぬ


*楡の木のみどりにみどりかさねてはおばあさまめくみささぎ通り


*いらんかね耳いらんかね 青空の奥のおるがんうるわしい日に


 などなど。


◇「現代詩手帖」の12月号をまた図書館で読む。
 先日の毎日新聞に今年一年の現代詩の回顧を城戸朱理が書いていて、
 「現代詩は復活した」というキャプションが各詩人の年間詩集ベスト5選
 のところに小さく書いてあった。
 今年はほとんど耳もふさいで目も閉じて生きていた気が私はするので、
 ふーんとつぶやくぐらいしか出来ないわけである。
 それでも妙な「行き場のなさ」感にあふれていた近年とは、
 刊行された詩集のラインナップを見る限りは、
 違うものがあるようには思えてくるが、
 それはそれで気の迷いなのかはよくわからない。
 久谷雉だけが都築響一の『夜露死苦現代詩』をクローズアップして、
 「閉鎖性」というようなものについて書いていたが、
 どうも私にはそういう捉え方は、遠い80年代の昔「漫画ゴラク」のコラムで、
 荒木経惟が現代詩の年鑑の作品集というのを読んだが、
 五輪真弓の『恋人よ』の「マラソン人」という言葉以上のものが
 そこにはなかったというようなもの言いとかさなるんだけどなあ。
 あとこないだ見たときは全く気が付かなかった荻原裕幸の、
 短歌時評を終えて、という感の長い文章に、眠気がさめるような感覚を。
 荻原は瀬尾育生の『戦争詩論』の読後感を興奮気味に(しかし冷静に)語って、
 「詩の歴史が短歌に言及せずに書けてしまう」ことに謎を感じずにはいられないと
 続けて語る。そののち、自分が詩手帖に書いた文が、
 どれもどうしても短歌の内輪の言葉で
 書かれているように自分でも見えた、と続ける。
 私は、そんなに荻原のコラムを読んではいないが、それでも馬場あき子の本について
 書いた一文とかには、確かにわざわざ詩手帖という場所で書くことの意味をそんなに
 感じさせはしなかったが、そういう言葉を荻原自身が言わないといけないのは
 つらいことなのかも知れない。
 とはいえ、結局「詩手帖」で「短詩型文学」特集が忘れたころにたまに組まれることは
 あっても、「短歌」や「短歌研究」で「現代詩特集」などが組まれることはありえない
 という不可逆な一方向性と無意識のジャンル間の階級制が、
 そこに根本としてあることは忘れてはいけない、
 と今書いたけど、ほんとは忘れていいのかも知れない。
 ただ「詩」や「短歌」やその他のジャンルに交流や相互批判があろうがなかろうが、
 今書かれているものは間違いなく今の時代の読者のためにそこにあるのだろう。
 なーんてかっこつけて言うこともないか。
 でもipodや携帯のニューモデルにさざめいてる方が普通の人は楽しいのかもね。
 うーん。