八月の台風が来る街で


◇私には、塚本邦雄の第十歌集『されど遊星』は夏、
第十一歌集の『閑雅空間』は秋、
第十二歌集の『天變の書』は冬、
の印象がある。

『されど遊星』より


もののふは木曾さきの世の夏の戀青き嵐に逅ひつつ逢はず


*頬髯は穂積皇子(ほづみのみこ)の穂に出でてかすめる夏の忘れがたみよ


*櫻桃(あうたう)の百相触るるまぼろしの夏 遊星に何創(はじ)まらむ


*夏すでに月より及ぶ青銅のひかりわが娶りしはなにゆゑ


*夏いまだ童貞の香の馬を責む戀いつの日に解かるる魔法



『閑雅空間』より


*星の秋ことばの秋やうつしみの六腑こころのほかのぬばたま


*刎頸の友など無しと君言ひき朝霰ふる旅の秋篠


*秋茄子の藍淡(あは)ければうつし身のわがめとりけるもの妻と罰


*初霜の地に籠(こ)の螢振りおとす母はや おこそとのほもよろを


*ふるさとは杉鐵砲の彈丸(たま)かをりわれも死者 いきしちにひみりゐ



『天變の書』より


*冬苺、否きずあさきたましひのかたち見えたりミケランジェロ


*ああ樹氷こよひあまりの寂寥に戀の二人ぞ透きとほりける


*笹の花きみはエデンの東よりかへりきたれる冬の太陽


*冬の石榴甘し見るともなく見しは医師が医師刺すイタリア映畫


*觀音の千手縺(もつ)るるその中の一手は枯れ枯れの冬霞



◇角川「短歌」の九月号特集−歌人塚本邦雄」以降−を買って来たが、
詩手帖の増刊号を数日読みふけっていた身には、
結構軽い特集に感じられる。というかさすがに食傷したのだろう。
うっかりしていたことがひとつあって、塚本の歌集『約翰傳偽書』を、
私は黒瀬珂瀾の文章(よく書いていると思う)を読むまで『約翰偽傳書』だと
思いこんでいた。うっかりにもほどがあるが、後者の講談社ノベルズっぽい
リズムに今の私が親近感を感じるのはしょうがないだろう。
正式名の「偽書」という語で私が思い出すのはもちろん谷川俊太郎
タラマイカ偽書残闕』であるし、ほかには入沢康夫の「ランゲルハンス氏の島」や
阿部日奈子の第一詩集(これは私は未読)や、高柳誠の年来の著作に通じる、
一書物一世界という様式の本の作り方である。
そうはいって見るものの、塚本の歌集のタイトルに「偽書」というのは
どうも似合わない気もする。
私としては、「勉強」とかそういうのではなくて、単純に「面白いもの」として、
塚本の歌集を読むようなひとがこれからもある程度の絶対数を維持していてくれれば、
それが一番いいように思う。
見渡してもあんまりそういう感じはしないことはしないのだが、
それでもいまの世界に(いまここではこの「世界」の定義は省く)
求められているものは結局、
いかに新しい形で「教養」の桎梏の網の目を組み替えるか、
ということではないのだろうか。
そこに大きな意味での現在の「詩歌」の課題はあるように思えるのだが、
作品や流通を含めて、その具体的な展開や総体的な受容と供給の像を
思い描くのは、困難至極であることには頷くほかはない。