北方謙三『寂滅の剣』の感想
- 作者: 北方謙三
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2012/09/28
- メディア: 文庫
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◇普段肯定的でない文章や物言いをしている人が、
急に何かをほめる物言いをすると、ああ、結局この人は
こういうものが好きなだけなんだ、と思ったりする。
今から北方謙三の『寂滅の剣』の感想を書くのだが、
そんな風に思われないだろうか、思われてもいいか、
という気持ちになっている。
◇「西村寿行より文章が短いともう暗号になってしまう」と言った作家
がいたと思うが、誰だか忘れてしまった。
「谷があった。水はなかった。」というような文章のことを言っていた
のだと思う。北方のこのシリーズも比較的短めの文で貫かれていて、
江戸期の(江戸時代というのには何だか抵抗と軽い恥ずかしさがある)
人間達の行動や命へのどこか吹っ切れた感覚をそれでよく描いている
と思う。本作はシリーズ五作目で完結編。今までの四冊は一年に一回
必ず読み返すぐらいは読んでいた。文庫が出るまで待っていたのは、
既刊四冊を文庫で持っていたから、と、完結を読むのが名残惜しかった
から。その前に死んだら後悔したかというと、むしろいいこころ残りがひとつ
あっていいんじゃないかとか思ったりした。
◇北方の他の小説は、一〜二冊手にとったり読んだりしただけで、
正直このシリーズ以外は苦手だ。たぶんこれからも読まないと思う。
新潮文庫のカバー絵はおそろしく地味で、もう転勤したけど職場で唯一
柄谷行人や宮台真司という固有名詞が通じる人が読んでいた四作目を
借りて読んだのが最初。
こんなにおもしろいものが出ているのも知らずに文芸雑誌や講談社ノベルス
やらの諸小説を読んでつまらながっていた自分が馬鹿らしかった。
とはいえ、大声ですすめるのも恥ずかしい気もするのは、
どこにも『高級』なところがないからだろうか。
ブックレビュアーの多くが勧めているのを見たことがないのは大きい。
単にお前が好きなだけやろ、と暗に言われているようだから。
人は誰でもそんなものかも知れないし。
◇ものを食い、寝る。起きる。生活の糧を得るために、何がしかの仕事をする。
老いて、死ぬ。
主人公、日向景一郎には、年齢の離れた弟がいる。
二人とも剣の才にたけ、一作目で生まれた弟は、子供の時に景一郎に
言われて、自分より幼い子どもの首をはねる。三作目の話。
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「森之助」
言って、景一郎が立ち上がり、脇差を抜いて幸太を縛った縄を切った。
「この子の首を刎ねろ。仕損じるな。一刀のもとにだ」
「はい、兄上」
森之助が進み出て、刀を抜いた。頭の横に構える。それ以上、森之助の躰は
動かなかった。蒼白になった顔面に、汗の粒が浮き出している。
「臆したか。おまえの刀は竹光か。この子供は死なねばならん。それはお前にも
わかるだろう。斬れ」
森之助の躰が激しくふるえはじめた。幸太はただ無表情に立ち尽くしている。
誰も、声ひとつあげなかった。森之助の気合が、修理の耳を衝いた。
人々の頭の上まで、幸太の首が舞い上がった。
『絶影の剣』より
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適度にふられているルビは、省略させて頂いて引いた。
老いて死ぬことは少なくないが、老いる前に死ぬこともある。
生も死も、一瞬で変わることがある。
要はそこに自分が立ち会うか、ということ。
日向流、という流派を、兄景一郎も弟森之助も使う。
そして主人公景一郎は、その流派をこの世から消したいと思っている。
実の父、森之助と同じ名の父は、景一郎自身の手で、斬った。
次は弟が二十歳になったときに、真剣で立ち会い、生死を決する。
そういうことになっている。
◇景一郎の剣は、強いと言えば、強い。
しかしその強さは、時代設定のなかでは、ほとんど無用のものである
ともなっている。実際野球やゴルフでいかに強くても、「日々」の中では
多くは無用である。鍛えた身体や感性は役に立つこともある。
ただそれだけの話である。
その中でいくつかの事件にー小説中では幕藩政治の軋轢やきしみにー景一郎
は巻き込まれ、剣を振るう。森之助もまた。
小説中では多くの人が、死ぬ。
四作目では、村ごと死ぬ。
それでも不思議な静謐感がある。
四作目の書き出しは「人を好きになることもある。」ではじまる。
生まれてから、死ぬまで、人を好きになることもある。
恋や性愛ではなく、ただ素直に、その人が望むなら、剣を振るい、
しかし出来ないことは出来ないといい、ためらわない。
◇「友愛なき平等」がもたらす日常生活の地獄化、とはそれほど言い古されては
いないが、かといって目新しくもあるまい。
短歌や俳句が、ある部分では餌ともしてきた「貧」と「病」は、関係性
と近代的なメガインフラの中でちょっとした空無感の中へ流出し、
現在を生きるものの複雑な感情の総和として回収されている。
日常が地獄だというのは悲惨だということではない。
日常の感覚の中に天国があり、地獄がある。
その天国の中にまた地獄と天国がある。
その地獄の中に天国とまた地獄がある。
私が言っているのはそういうことだ。
一瞬で、変わることもある。
ゆっくり、気づかないうちに変わることもある。
◇五作目の本書は、その日向景一郎と森之助が寄宿しつづけている薬草問屋に、
不穏な気配が起こり、景一郎たちは、多くを聞かぬまま、問屋の主人、
清六を守るため、迫る敵を斬ってゆく。
清六が、なんとなく、好きだから。
そして、その清六が、命をかけて何事かを、守ろうとしているから。
景一郎の剣は強い。森之助も強い。
しかしそれより強いものが現れたら、景一郎も森之助も死に、清六も死ぬ。
そのことは集中、何度も話される。
それは物事の道理だからである。
物語は、景一郎と森之助の試合で終る。
そこまで書いては書きすぎだろう。
エンターテイメントに感情移入しすぎだと自分でも少し思う。
しかし「現在」や「小説」への言及や接続にかなりの意識や重量を
かけている多くの小説より、私にはこの本の中に流れている空気の方が、
とても好ましく思われた。
この本は京都イオンモールの大垣書店で買った。
よく晴れた、秋の青い空が、建物を出ると、頭上にあった。
正岡
◇少しだけ付記。
各巻の文庫本の解説はどれもそれなりの脱力パワーをはらんだ麩菓子みたいな
文章ですが、一巻の解説は特に脱力パワーが激しいので、それは読まずに
買うとしたら買うのがいいと思います。
買ったあとカッターで解説ページを切り取っても、その作業にかかる手間が
無駄ではないくらいには脱力パワーがあると思います。