新しいまぜあわされた美しさ


◇いただいた本


*「−俳句空間−豈」 2007.oct.45号


 この号はおもしろかった。
 特集は「●伝統の黄昏/伝統の新興」という飯田龍太の死を主に契機としての
 俳句の伝統を再考するというものと、「戦後俳句論争」という論争をポイントにしての
 戦後俳句の史的再考、との二本立て。
 飯田龍太に関しては、私はさほど濃い関心を持ってこなかった。
 今年は春の終わり頃からほとんど短歌俳句関連のものに目を通していなかったので、
 各誌の龍太追悼文もほとんど読んでいない。
 だから食傷ということもなく、この号の、龍太に関するエッセイや論考を
 それなりに楽しむことが出来た。
 はっとするほどの新しい視点や、長い間記憶に残りそうな執筆者の骨肉に刻まれた
 経験の吐露などといったものはほとんどない。
 陶芸作家でもある木暮陶句郎は、前衛陶芸に惹かれた時期に多くのそうした作品を
 作り、賞も得たが、それらの作品は全く売れずに工房につみあがっていった、
 と書いている。しかしそういうことで激しい慚愧の念にかられている、と書かれているわけでは
 なくて、これからはそういうものではなく、「用の美」を目指して、楽しんでもらえる
 作品を作ってみようと思っている、と書かれている。
 別にこれは揶揄でも批判でもなく、「楽しんでもらえる作品」があって「作品を楽しむひと」
 がいるという当たり前の現実に基づいた、「楽観」がここにはあるのだと思う。
 龍太や、「俳句の伝統」を語る文は、おおむねこうした底深い「楽観」に支えられていて、
 それらを通じて読むと、
 実は有季定型というのは、年を取ったひとたち向けに変換された
 ライトノベルやジュニア小説なのでは、
 という思いすらわかせる。
 小学生の女の子とかが、葉書にイラストを描いて、投稿したものを新聞で載せてたり
 することがあるでしょ?
 あれにいつごろからか、「オリです」「オリキャラです」とか短い手書きの文字が
 添えられてるものが多くなっています。
 最初なにかなあ、これ、と思ったら、そう、「オリジナルのキャラです」という
 意味なんですね。
 そんなこと誰も気にしないよ、などというのは大人の考えで、
 たぶん子供たちの中では怖いぐらいに一定の人物画像の共有化がなされてるんだろうと
 私は思います。
 もちろんそこには、「一定の人物画像の共有化」が、「選択不可能な世界イメージからの汚染」
 とほとんど不可分であるような圧迫感があるわけですね。
 俳句はその点基本的に「選択」を前提にした「師弟論」を内部にはりめぐらせた詩の形式で
 ありますから、俳句において現在を生きているものが、そこから俳句を語るとき、
 必然的に「楽観」が生じるんじゃないでしょうかね。
 それはそれとして、坊城俊樹さんが、


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  草間氏(正岡註:草間時彦なのかな? よくわかりません)が伝統の終焉と仰っ
 しゃったかは知らないが、今の私にはその伝統たるコンプレックスはなにもない。
 あるのは、村上(正岡註:これはその前の文脈から村上隆である)みたいに創作し
 たいし、プリウスみたいに金を稼ぎたい。
  有名になって、伝統や前衛に縛られずに、作品を雲固の如く量産し、ボージョー
 の作品として貢献し、その余剰金をミックジャガーのように世界に寄付したいばか
 りなのである。
                 (伝統と前衛って死語?/坊城俊樹)
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 と書いてるのは、なかなかめずらしくっていいんじゃないでしょうか。
 飯田龍太に関して集中して論を書いてきた、(どうも「執拗」というのはこの人には
 似合わない気がするのでこう書くのだが)筑紫磐井は、これまであちこちに書いた追
 悼文を集成していて、これはこれで壮観です。文の副題は「伝統俳句はここに滅ぶ」
 となっていますが、藤井貞和の論を一冊まるごとで読解してみせたさきの著作の中で、
 「実際に詩型が滅んでいたとしてもその当事者にはわからない(かも知れない)」と
 いう内容のことを書いていたりもしましたから、
 滅んでいたとしてもそれはそれで滅んでいないこととはなにも変わらない、
 という意味なのかも知れません。
 筑紫さんのNHKのラジオ出演は一回目しか聞けませんでした。
 いや、見ようと思ってTV見るのとか予定たててラジオ聞くのとか苦手なのです。


◇長いのでちょっとひとやすみ。
 あ、ネットをながめてたら、「インターネット俳句協会」というのが
 出来ていることを知りました。
 「マルチ短詩人共同組合」というのでも作ろうかなあ。


◇あとは二点ほど。
 高山れおなは、最近あちこちに書いていた、妙に擬古的な文体の作品をまとめて、
 「寺田澄史の『新・浦嶼子伝』を読んで云々」と創作のモチーフを書いた短文とともに
 「俳諧曾我」として発表。


 (「新・浦嶼子伝」はこんな本)

http://www.span-art.co.jp/parts/book/uno/urashima/01.html


 ああそういうものだったの、とは納得するけれど、知的ではあっても一義的な了解は
 手放さなかったこれまでの作風からは、ちょっと離れているので、奇異な感じは受ける。
 とはいえ、なにも無理して系列づけることはないのだが、高山れおなは俳句評論系の
 俳句作家の最終走者なのかなあ、と思ったりもした。
 寺田のその作品は未見だが、高柳重信のように完成されて行くことを「おのずから」
 拒否する、高等遊民性の蕩尽が寺田にもあったし折笠美秋や大岡頌司にも
 あったように思う。
 私の手元にあるいつの号のものかもはやわからない「俳句研究」のコピーの束に、
 「後南朝1950/折笠美秋」「天竺徳兵衛余藁/寺田澄史」という15句欄のコピーが
 あり、この題の付け方だけでも彼らの史的な関心の特性がうかがえるのではないか。
 そういう意味で、この高山の、それでも寺田たちと違って2007年の浮遊の匂いの
 する作品を見て、最終ランナーという感想を持ったりもする。
 あと雰囲気で終わらせたくないという作者の願望はかえって味付けの濃さを
 読者に与えちゃうんじゃないのかなあ・・・。
 刃傷沙汰のクライマックスの描写では永田和宏の「首夏物語」という短歌連作が
 (歌集『黄金分割』所収)
 わりとよくやってるなあと思えたりするので、推敲するなら一度目を通してみては。
 もう一点。
 生野毅さんという方の、図書新聞の俳句の時評のような一文が、転載されていますけど、
 これは一回でいいでしょうに。
 これは安井さんの新句集の評で、それ自体は悪くないんですけど。
 本誌のページの中に、安井浩司の選句集というのが邑書林から出版されるという広告も。
 あと今泉康弘も安井論を寄稿。
 高山れおなは「俳句研究」の終刊号のアンケートで、安井浩司について、
 「五十年後に評価されるだろうという言葉がもっともよく似合い、事実そうなるだろう」
 とすてきな言葉を書き付けているんですけど、
 大事なのはその五十年後をいかに現在に於いて自力で乗り越えようとするかだと
 思うんだけどなー。
 私にとっては『汝と我』は名作ですけどね、今泉さん。


◇おまけ。
 先日の日記の章題を「オネゲル・ミヨー・プーランク」という小谷野敦の本から抜いた
 ものをつけてアップしたら、オネゲルにいきなりキーワードリンクがついてしまって、
 ああこりゃそれでこのページへ来たひとは詐欺だーなにもかいてねーじゃんけこいつ
 とかおもうかもなー、と思って題を変えました。
 しかしはてなアンテナとかでRSSリーダーを使ってるひとは、
 アップしてすぐのがそのまま表示されちゃうんですな。
 これから気をつけます。