11月は村上隆が奈良に来るそうで


文化の日の前後に「文化力」という例の文化庁の催しで、
 今年は奈良のホールで村上隆をまねいてのシンポや講演が11月10日にあるんだとか。
 おう、入場無料300名ね、とか気がついたときにはすでに申し込みの締め切りが
 終わっていた!
 残念というほどでもないけど、ちょっと生で見てみたかった・・・。


◇買った本


*「現代詩手帖」 特集:詩歌句スクランブル 2007/11月号 思潮社


 スクランブルという言葉に引きそうになる気持ちはわかる。
 ん、が。
 さて特集巻頭は岡井隆大岡信対談。
 これは「短歌」の対談での岡井隆よりオーソドクスで物足りないといえば物足りない。
 「折々のうたに影響されて塚本さんも新聞連載をやったしぼくもやったし
  ほかのひともやったけど、みんな大岡さんのようにはならなかった。
  塚本さんは確かにジェラシーがあったと思うけどそういうところに関しては
  どうですか」
 とか、そういう話にここはなるべきでは。
 あるいは、現代短歌全集の解説における加藤治郎へのネガティブな評価の意味とか。
 折々のうたの後期の方では、新人の処女歌集や句集などからも作品をとりあげて
 ましたが、ある程度はそれらは今思い出せるものなのですか? とか。
 そういうことはきみが大岡信とまともに話が出来るようになったら自分で聞け、
 というのはその通りなんだけど、塚本さんが死んじゃってからいろいろ過去や
 現在に関してはあからさまな話が出はじめてるので一読者としては期待します
 けどねえ。
 とはいえ、現実に対談が活字になってる通り進んだかどうかは、また別だし、
 「今日は何でも自由に」とかいって対談がはじまったとも限らないので。
 あとの特集は短めのエッセイ調のものが多くて、どこまでが企画でどこからが
 それぞれの執筆者たちの選択かいまいちわかりにくいですが、
 いずれにせよ詩人たちが俳句短歌を語ろうとするとかなり評価のすでに定まった人が
 中心になるものだなあ、といまさらながらそれを痛感。 
 短い内容で現在の日本詩歌の見取り図を描いてから塚本・山中の仕事に言及する
 高橋睦郎はきっちりしているけれど、いささか無難な現状認識に見えもする。
 城戸朱理は国際詩歌のイベントで俳句のこと(芭蕉のこと)ばかり聞かれたという話から、
 いずれ安井浩司に関してはきちんと書く、とはさんで、いつものように小難しい
 ことを書いて文をくくる。
 「オーゴーゾーヨシマース!」とか
 「シュンタロータニガーワベリナイス!」とか
 嘘でもいいから誰かいってくれないのかねえ、とはそういう話をきくたび
 たまに思います。
 とりあえず安井に関してはきちんと書けよ! きちんと!
 いまいち同年生まれの歌人俳人が見つけにくい瀬尾育生は、
 (瀬尾は1948年生、山田富士郎で1950年、藤原龍一郎で1952年、
  正木ゆう子も1952年で、千葉皓史・西川徹郎が1947年、
  どうでもいいけど徹郎と書くとメーテルと書きたくなるのは私だけ?
  あれは鉄郎か。西村和子がやっと1948年だが
  ちょっと西村と比較してもしょうがない。)
 連載の中で、自己のこれまでの詩史論の延長線的視点から、
 原理論的に現在の短歌までを言及。
 これは去年の年末に荻原裕幸が瀬尾の『戦争詩論』の読後感において、
 「短歌にまったく触れずに日本の近代からの詩の通史が書ききれてしまう」
 (このニュアンスは微妙なので気になる人は「詩手帖」のバックナンバーから
  原文参照してね。
  本人はブログで「卑屈」とかいってるけど私は別に。)
 ことに関しておおいにとまどった(?)、と書いているのを多少は受けているのかも。
 ここで瀬尾は「古日本文学」までさかのぼって歌のリズムを論じ、
 戦意高揚の歌をひいて、表現の水準の線を図示して、
 <部族共同体>の表現の水準の線から<近代国民国家>(それぞれの語の定義は
 ここでひとまずは置く)の表現の水準の線へと反復しながら上昇する線が描く
 上昇の線の領域に、<戦争吟>を設定する。
 そこから石井辰彦の歌集『蛇の舌』所収の「ほしいままの心で」という連作を、
 「定義通りの公的言論が形づくられている」と分析する。
 (原文は「公的言論」に付点)
 瀬尾の一文は(「上」と書かれているので「下」があるようだが)
 石井の歌の「達成」しているものを論理づけているわけだが、
 それでも個人的に違和感が残るのは、私たちは石井の歌を「すぐれたもの」と
 して設定しなければならない(個人的な感懐はこの「設定」という箇所には
 含まれない)時代にあるのだろうか、という部分である。
 というのも瀬尾が引いている一連は、石井の歌の中でもとても「コミュニケーション」
 の匂いの強い歌だからである。
 作歌の動機も含めてこれだけ「コミュニケーション」の匂いがする一連というものが、
 公的言論に至る、ということに私たちは喜びを見いだすべきなのか?
 「そこはひとそれぞれですよ」と言われると、それは納得するほかはないのだが。


◇先日買った沖俳句会編の『処女句集と現在』を職場で読み進める。
 俳句誌「沖」の連載研究としてスタートしたものだが、よく見ると連載初回が1991年で、
 刊行が1995年と結構時間がたっている。
 いささかあっさりめの俳人論、もしくは鑑賞っぽい文章を読み進めていくと、中原道夫が
 鷹羽狩行を論じた文章で、急にねちっこい文体になっておお、とか思う。
 最初に


 摩天楼より新緑がパセリほど  狩行


 の句をひいたあと、中原はこの句の前書「ニューヨーク エムパイア・ステートビル」
 というおおかた人々が忘れている部分を引いて、実際に自分があがって見た景色を
 てらしあわせてしまう。無論、そのためにわざわざニューヨークへ中原がいったわけでは
 なかろうが。
 そのあとに誓子との関連で「氷海」新人会のメンバーを歌い込んだ数え歌の八番に(狩行を名乗る前の)
 高橋行雄を歌ったものを引くという念の入れようで、思わずほかの七番までを聞いてみたく
 なるのだが。
 なるほどこの文の作者にして「屏風絵の鷹は余白を窺へり」の句ありか、と初期の中原の私が好きな句を
 思い出したりする。
 正木ゆう子が宇佐美魚目を論じていて、これはなかなかうつくしい一文。


◇名古屋の秋月祐一さんから、DVDが届いた。
 NHK名古屋に勤務する秋月さんの制作した「中学生日記」の「恋する短歌」という、
 中学生の女の子が短歌を書くはめになって・・・というエピソードの番組録画である。
 秋月さんありがとー。
 内容は特に現代短歌とかの引用はなくて、
 中学生の女の子が好きな男の子に告ろうとしたら、短歌でしなさいよ、とそのとりまきに言われて、
 幼なじみの別の男の子(で短歌をネットで書いたりしてる子)にレクチャーを受ける。
 やがて・・・・。というお話。
 たぶん秋月さんの中で作るときにあれこれ考えたんでは、
 (「結社」とか触れようかなあ、とか)
 とすごく思いますねえ。
 そういう制約の中で作ったとみれば、
 よく出来てんじゃん、とも思うけど、
 もうちょっと何かほしいなあとも思いますねえ。
 反響があれば続編が作れるなら、それに期待。
 ただこれ、出演者がほとんど公募の地元中学生みたいで、
 放送部とか、そういうところから応募してるのかな。
 私のつたない経験ですが、「放送機材」とか「現場で使う機械」というものに
 ある程度どんな形でも触れた経験があると、思わぬところで役に立つことがあるので、
 そういう意味でこういう機会があるのはいいことですね。
 ただこういう映像見ると、やっぱりマンガの『君に届け』なんか
 「美化」してるよなあやっぱり・・・とか思いますねえ・・・。