もう歌でひとは死なない


◇買った本


*「文學界」 2007/11月号 文藝春秋


 近くのスーパー銭湯にいきました。
 帰り道に県立奈良図書情報館があります。
 二階が開架式の閲覧フロアです。
 「企業塾」やら「現代詩手帖」9月号やら10月号やら、
 角川「短歌」の今月号や枡野浩一さんが言ってた先月号の
 演劇作家たちの座談会の載ってる先月の「文學界」などを
 とってきました。
 椅子に座って読んでいきました。
 ああおもしろかった。
 ほんとはもっとおもしろおかしく書きたいのですが時間がないのでふつうに書いてゆきます。
 角川「短歌」の岡井隆の聞書は塚本邦雄の「ハムレット」批判で、
 「証拠があります。引用されることがひとつもないでしょう」
 というところがもう大拍手ですね。
 これはこののちに心の花かどこかのメンバーがいつか行って
 確か「歌壇」か何かの巻末に一挙掲載されたものでもそうじゃないですかね。
 (「ハムレット」の)「見よ! 晩餐の焼豚め!」とかいうところは私は好きなんですけど。
 結局「続き」がなかったから引用するような人も場所もなかったわけですなあ。
 でも「引用」は完全に「ジャッジ−審判」ですからね。
 小高賢さんが、阿木津英に向かって「だったらこんなところへ来るなよ!」
 といつか「歌壇」の鼎談でいってたのと同じような雰囲気で岡井さんにものごとを
 聞いて行くところもおもしろくて、短歌作品のページなんかまったくいらないような
 気がしますねえ。
 いや帰りに買おうと思ってくまざわ書店に行ったらなかったんですよ。
 「現代詩手帖」ではとにかく詩のジャーナルとしての課程から、
 (瀬尾育生が、詩誌『ラ・メール』のなんとか会員にしてあげる、
  とか詩に書いたのも遠い昔・・・。
  なんであれを現代詩文庫に入れないのよ・・・。)
 あまり積極的にフォローしていなかった詩人たちを不可避的にとりあげてゆかざるを得なくなって、
 (それが経営や編集者の姿勢であっても、状況としては「不可避」では?
  ついでにふらんす堂のブログでは「新しい詩人たち」のシリーズを担当した、
  思潮社の一女性の編集者の名をあげて称揚してますね。)
 これはこれで当然の姿なんですが犬塚堯とか秋山清とかががんがん特集されて、
 (短歌で竹山広が特集されるようなもんか?)
 晩年の生方たつゑみたいな新川和江の写真が載ってたりすると
 それはそれで「詩の高齢化」というよりも世代間のミックスダウン化という気もしますね。
 そういう中で「これから」と自分で思ってたり「いまさら」とひとに思われたりしながら
 詩を書くひとはほんとに大変!!!
 気にしなきゃそれですみますが。
 6月号の岡井隆の特集号はいきなり吉本隆明からはじまって、岡井自身は
 選句選歌と真剣に向き合うということの不可能性が逆説的にささえている現在の短詩型の状況
 (とおそらくは詩型の特権の問題。
  大岡信の言う「実存が本質に先立ってきた短歌・俳句」という視点への疑義もあるかも)
 から飯田龍太の引退を批判。
 ここまでいくと枡野浩一の「詩歌」の抱えてる問題も当然はいるわけです。
 朗読はいつぞやの朗読開始時期に読んだ「時の狭間にて」の最初の部分を前振りに読んだ
 みたいで、あ、これが聞けるならちょっとだけいってみたかった。
 私はいまだに、きみがゆきけながくなりぬやまたづの訪ねることももはやあらむ
 待つことももはやあるまい戦後死人伝中のきみに捧ぐ、願わくば受けよ、
 あたりまで暗誦出来ます。全歌集の二巻も福島版『天河−』もうちにないけど。
 ま、どうでもいいか。あとは菅谷規矩雄が死んじゃったから、座談会みたいなのには北川透
 瀬尾育生、平田俊子穂村弘で齋藤槇爾が司会進行ですか。
 ずっと見てるうちにほんとはもう「詩型の領域」なんてないんじゃないのかなあ、
 と思えてきましたねえ。
 いや、あるんですよ。もちろん。
 「俳壇」2006年8月号の吉本隆明聞き書きの中で
 (ちなみに私が特別いまだにヨシモトを追いかけてるわけではなくて、
  やたらと各雑誌やメディア−水無田気流さんとかが新人の詩集を三十冊ほど吉本隆明
  読んでもらっての反応を聞いたとかいうことも含めて−が追うので
  こうなるだけです)
 吉本さんは鮎川信夫の「俺は俳句や短歌は全然わからない。本当にわからないんだ」
 という言葉を引いて、もう公然と言ってました、と重ねていってますね。
 だからなかはられいこさんの川柳まで含めていますべては「現代詩」だといってもよくて、
 ただすべて現代詩だといってしまうと短歌も俳句も川柳も死んでしまうほかはない、
 というだけのことなんじゃないかなと一瞬思ったわけです。
 中尾太一の小特集は誰かが「友愛」とかいってたり松本圭二山本陽子や支路遺耕治までもって
 きていましたが、でもやっぱり私はあれは講談社ノベルスだと思いますけども。
 『煙か土か食い物』から舞城王太郎はずっと福井を書いてますけど、
 福井というのは街の人に福井駅へいくバスはどれでしょうと聞くと、福井を走るバスは
 みんな福井駅へいきますよ、と答えるような「ローカル」なんですよ。
 それが東京という「セントラル」で、もしくは東京というセントラルの物語の支配の中で、
 新たに言葉を紡ぐときにああいう「表情」を帯びるんじゃないですかね。
 私は佐藤友哉新海誠なんかも(札幌?)そうじゃないかと思いますけどね。
 別にこういう固有名詞はどうでもいいんだけど、ほかならぬ「青猫以後」を書いた
 松本圭二には、ガチガチの現代詩で一人勝ちしたいよ、といった松本圭二には、
 もっと何かを期待してはいかんのでしょうか。
 あと「ローカル」「セントラル」の話では、
 だから私は田中庸介の「京都」(詩誌「妃」8号/1991.5発行)はいい、というのですよ。
 あれをいいというのが私だけ(といつか奥さんから聞いた)という状態はおかしいと思います。
 角川「短歌」に戻ると、新人賞の佳作になんとかTOKYOというのがあって、
 作品に言及されず題に言及されてはたまったもんではないけれど
 「東京」でいいじゃん! そいで書けよ! とか私は思うんですけどね。
 でも載っちゃったらそれで勝ちなんで気にすることはないです。
 「文學界」の座談会は、枡野さんがミクシイで五反田団の前田司郎さんがおもしろかった、
 と書いてたように、テレビの影響を前田さんだけが主張してほかのひとがみな
 反対してたところとかおもしろかったです。
 ほらもう書き始めて1時間51分たった。


◇昨日は仕事の合間にこないだ買った『世界文学全集/現代詩集』を。
 名前は有名な「ブラッドストリート夫人賛歌」。
 いやあ・・・・・さっぱりわかりません!
 このアホ、と罵る人は罵ってください。
 そりゃピンチョンも「V.」を書くわ。
 ダイベックも「シカゴ育ち」を書くわ。と言わんばかりのわからなさ。
 こんなわからん詩が流通(どういう風にかはさっぱりわからないが)
 する国と戦争したのか・・・私がしたんじゃないけど・・・。
 これ以外にもおてあげの詩が多いけど、詩行のフォントはなぜか、
 「野生時代」連作詩編に似たものを感じます。
 いやだから「記号の森−」は杉浦さんのデザインがねえ・・・。