緩みゆくIDEのケーブルの形式

masaokayutaka2007-10-17



◇本日のリンク。
家紋ジェネレーター。お茶の「綾鷹」のサイトから、「遊戯」を選択。

http://ayataka.jp/#


左の画像は私のやってみたもの。
もっとかっこいいのがよかったなあ。



◇おとつい買った本


*『2ちゃんねるはなぜ潰れないのか?』 ひろゆき西村博之) 
  扶桑社新書
*『フィジカルインタテンシティティ3』 村上龍  光文社
*『官能小説家』 高橋源一郎 朝日新聞社


 歩いて数分のブックオフに『官能小説家』があった。一冊だけでは
 買いにくい(そうか?)のでついでに二冊。
 ひろゆきの新書は、あ、こういうことが書いてある本だったのか、
 とそういうところがおもしろかった。
 ネットと自分の関わり、などと言うとたいそうなことになるけれど、
 私などは結局自分の好みの世界に関わるところで徘徊しているだけである。
 ひろゆきの本はわざと語らないようにしてるところもあるのかも
 知れないが、とりあえずネットというのは大きな要素として「サーバー」
 があるわけで、日本の法律では国内に検索のサーバーを置くと違法になるけれど
 海外に置けば違法にならない、そういう現実の演繹でネット関連の事柄が
 微妙な欲望のバランスで書かれているようなそんな本ですね。
 微妙な欲望のバランス、というのはこれはほかの多くの本でもそうなんだけど、
 言ってることに「師弟論」が織り込まれていないから、
 どこか身も蓋もない話か、投げやりな雰囲気が生じるんではないでしょうかね。
 ただそれなりに「ごまかし」をほどいてゆくような話はいくつもあって、
 「セカンドライフ」はだめだろう、とか、Web2.0というのは実体のない
 ただのフレーズじゃないのかとか、そういう話が雑談っぽく書かれてますね。
 よけいな話といえばこの本にしても私が書いてるこの日記の文も全部「よけいな話」
 なんだけど、そこにはそれで「選別」の基準があって、ひろゆきさんの話では
 あまり些末なネットの歴史みたいなことには語っていないのがその選別の基準なんでしょうね。
 だからブラウザの話なんかはほとんど今なにつかっても同じだから、
 そうなった時点でその歴史は終結してるからあまり意識にのぼらないんじゃ
 ないんですかね。
 数年前に糸井重里がインターネットに関する新書を岩波かどこかから出して、
 出た当時に読んだはずなんですがほとんど覚えていないですね。
 あの本はまた過渡的な話題であることを著者の糸井さんも踏まえていたはずなんですが、
 糸井さんの方が「欲望」が強い、というか、結局ひろゆきさんより糸井さんの方が
 世代が上なんでしょうね。糸井さんの言うことややることにはもちろん、
 細分化されたところで師弟論があるんだとは思います。
 ただやっぱり私は「ほぼ日刊」のサイトはほとんどのぞくことはないですね。
 この本、2007年7月が初版なんですけど、web2.0の「.」のフォントの位置や全角半角が
 やたらといい加減なとこも含めて、いまの空気のある本になってると思います。
 村上龍のサッカーエッセイだけはなんとなく好きなんですが、
 この本確か一回買ったんでは? と読んでるうちに思いだしました。
 とはいえマンガみたいなもんですから、それなりに途中までざっと読んでしまうのは、
 やはりそれなりに文章が上手だからでしょうかね。「うまい」というより「上手」。



 「幸運を引き寄せるために必要なのは、祈りではなく科学的な努力だ。当たり前の
  ことだが、科学的な努力の蓄積だけが奇跡のようなドラマの土壌となる。」
                       (69頁)


 こういうところが「上手」という感じ。
 高橋の本はまだ読んでる途中。
 でもこちらは文章が、というほかはないので文章というけど、「うまい」という感じ。
 朝日新聞に連載されてるうちは朝日をとっていたのだけど、
 (今はとってない。だから新聞は聖教新聞公明新聞だけ。でも二つとも
  正式には機関紙なはずなんだけど正式というのが法的という意味かまでは
  あんまりよくわからない)
 あんまり読まなかった。
 毎日読むとか毎日見るとかいうのは基本的に苦手なのです。
 私はこんな風に日記とかをですますだったかしらかしらね調で書いてるので
 ネットで知り合った東京の人と初めて話すと「関西弁なんですね」
 と言われます。
 そういう意味でも書き言葉というのは本当は特殊な言葉で、そういうのが会話の
 部分とかですごく気になってしまうのが、あんまりうまいと思わない小説家の
 文章で、「永遠の仔」なんかはその典型。
 内容はもっと最初から半井・樋口の話が続いてるのかと思ったら、
 処女作の「さようなら−」に出てくる「詩の教室」みたいな「小説教室」みたいなのが
 出てきたりと、座長が入れ替わる吉本新喜劇を見る感じ。
 でもやっぱり吉本新喜劇吉本新喜劇だなと思えるように、
 高橋源一郎は源一郎である。
 ものを教える会話の中に流れる対象への愛や好意が
 そのまま世界への愛や好意へそれとなく拡大してゆくような小説の論議や、
 「スタンスの提示」として選択されている(のだと思う)「作家としての自分」
 が頻繁にかける電話の会話のいやらしくないありきたりさは、
 逃れられぬ命運を自らそれとなく選択として意識した者が、
 ときおり路上でふと誰にともなく見せる理由を聞けば
 「ん、別に」
 と答えるだろう「微笑」のように見える。
 それはそれでいいのじゃないのかな。ん、別に、ね。


◇今日はじめて見た「週刊俳句」。

http://weekly-haiku.blogspot.com/


 や く そ く の 木 綿 豆 腐 を 持 っ た ま ま
              なかはられいこ


 はいいですな。