布団で現代詩を読まないで

◇昨日買った本


*『体験的音楽論』 いずみたく 国民文庫830 大月書店
*『太虚集』 島木赤彦 古今書院


◇今日届いた本


 アマゾンで買ったから、
 あーまた留守中に届いて電話せにゃならんのだろうなあ、と思って
 帰ったらガスメーターのところに入れておいてくれた。
 ありがとう! きょうのペリカン便のひと!
 使い道がないので同じところにほうりこんでるMSX2を持って帰ってくれても
 よかったのに! っていらんわそんなもん誰も。


◇島木の書名は「虚」の字がほんとは「七」の下の部分が「丘」なので、
 超漢字系なら出るかなと思ってサンルイの超漢字検索でやってみたけど
 出ませんでした。文字鏡は・・・ちょっとうちの環境では・・・無理。
 初版が大正13年で、これは昭和22年の9版。
 昔の本は息が長いわねー。
 いずみたくの本と二冊で、生駒の古書店キトラ文庫の100円棚から抜く。
 ここは日曜日だけ店頭の100円箱の本なら何冊買っても100円なのだ。
 さて、歌謡曲論といえば近田春夫を思う人が多いのだろうが、私の場合は
 まっさきにくるのは針すなおで、遠い昔の小説新潮か宝石かで、
 「津軽海峡冬景色」の歌い出しの三連符のつながりがいかに画期的だったかを
 針が書いた文章はたぶん脳内で脚色されているだろうけれど
 確かに感動した記憶あり。
 200頁ほどのいずみたくの本は自分の音楽論と音楽的自伝をミックスしたようなもので、
 おたくの人はみんな読んでるだろう岡田・山本・田中公平三者対談のシリーズの、
 田中公平の部分を拡大したような感じの本。
 (映画のサントラのオーケストラの曲を締め切り二週間前に急に依頼されて、
  引き受けてから74曲と聞いて驚いたけどきちんと一曲分にかける時間を
  割り振って仕事をはじめたら、仕上がってしかも何時間かあまったという
  田中のエピソードはおおプロとはこういうものかと思わせてくれる)
 読むとそれなりに時代を感じさせて(本書は1976年初版)
 楽譜も歌詞もアバウトに随所に引用されていて、ああ、そういえば
 「手のひらを太陽に」ってこうしてみるとやなせたかしの歌詞らしいよなあ、
 とか「希望」(希望という名のあなたをたずねて、というやつね)の4番の歌詞って
 なんかすごみがあるよなあ、とか思えてなかなかおもしろい。
 「いい湯だな」「女ひとり」(恋にやぶれた女がひとり、というやつね)
 「筑波山男声合唱団」の三曲はいずみたく永六輔が「にほんのうた」という
 シリーズで各地をまわって四年がかりで作った約50曲のうちの3曲で、永六輔
 これが終わって作詞休止宣言をしたとか。(執筆当時の話)。
 全曲名と地方は下記に。

http://info.hmv.co.jp/p/t/31/046.html
 長い間謎だったあの「ババンババンバンバン」というかけ声は最初はなかったけど
 ギター一本で青山のスナックで歌っていた歌手が前奏と間奏を口で歌って
 それがひろまったのだとか。ああ、そういうものだったのね。


中尾太一の本は届いたものをさっと開いたら詩手帖の掲載時のものに比べて
 フォントが小さくなっていてちょっとショックなまみよりだった。
 本全体は思潮社の新しい詩人のシリーズを縦と横にそれぞれ引き延ばしたようなサイズ。
 ということで人の感想や今月の手帖の特集をまったく見ずに読み終える。
 途中でちょっと疲れるけれど私はおもしろかったです。
 最初の詩の二行が、


(この浜辺で時間と風と、かけっこしたら、どっちがはやいかしら
(その間を銀色の鹿が駆け抜けて、きっと彼が一番さ


 というもので、これはもう講談社ノベルスというか「fateは文学」というか、
 近年のエンターテイメントが活字やフォントで奏でる音楽の、その基調低音のような
 ところでそれらの小説やビジュアルノベルと響きあってるような感があります。
 「基調」というのはたぶん思春期という世界に絶対性を与えつつ、その絶対性から
 見た「性意識」と「美意識」を複雑に絡め合わせて、
「快感」や「快感の追求」や「快感の追求の共有」を求める感覚、ととりあえず言っておきます。
 けれど中尾の詩のなかでは、そうしたエンターテイメントが主にエロスとして提供する
ロリータコンプレックスと完全に重ねあわされた頭身へのコンプレックス」
 が提供されているわけではないので、むしろ80年代文学調少女マンガにバイアスがかかっている
 とも思えます。上記の二行のちょっとした内田善美っぽさなどそうではないでしょうか。
 とはいえ、現代詩の「様式としての遺産」というか武器ともいってよい錯乱的な文体や、
 叙述のせき止めによる直情への反乱、もしくは直情そものの複雑化を、
 西暦2000年前後の日本の男女の思春期じみた関係の感覚と心的な外傷をめぐる擬似的な物語を中心にして、
 詩意識の中に落とし込むというのは、誰でも出来るようでいて、
 誰もやらなかったことのような気がします。
 あるいは誰もうまくいかなかったとか。
 好き嫌いで言えば、まんなかあたりの二編「nova」「rivers」がいいですね。
 「愛の任務の遙か彼方」(「rivers」)というフレーズとかは口元がほころびますね。
 ただこの作者が私はまだ21歳くらいかと思ったら1978年生で20代後半で、
 それはあっというまに30代になってしまうということでもあるのでこれから
 どうなるのでしょうねえ。
 別にしたり顔で心配するわけではないですが。
 和合亮一の哄笑的であることと攻撃的であることの境界が解体されるような
 詩的叙述が私はちょっと苦手で、引き合いに出すわけではないですが
 同じカラーでないことはもちろんですがもう少しこういう詩人が出てもいいかなあ、
 と思います。
 てゆーか引き合いにしてるか。
 とりあえずそんなとこで。