ジェイク・シマブクロの11月22日

◇読んだ本
*『環状線のモンスター』  加藤治郎
*『文藝ガーリッシュ』  千野帽子


 『サニーサイドアップ』から十数年、初めて加藤治郎の歌集を
普通に本屋の棚からすっと抜き出して買うことが出来た。こういうことに
感慨を抱くのは私ひとりかも知れないが、まあそれでも、ようやくか、
という感じ。
 前歌集「ニュー・エクリプス」とくらべると、方向性が「現在の恐怖&恐怖感」と
男性視点から展開される都会的なエロス、の二つに特化されている感じで、
その分加藤独自の韻律が主に前半の作品に顕著にあらわれている。
 韻律をもってつながらないものをつなげてしまう、言語化しがたい「気分」や
「雰囲気」を作品化してしまう、というのが短歌のひとつの特権的武器では
あるのだが、その韻律化が特権的な武器であることの「実存」と「本質」を、
そのまままた自作の韻律にとりこむ、ということに関しては、現在も加藤のほかに
それを実現しているものは誰もいない。


*まだ見ぬひとのメールは甘くするするとミルクの膜がくちびるに来る/加藤治郎


 「ミルクの膜がくちびるにはりつくというあの感じ」、といったひとが
「実感」と軽く言ってしまいそうなものを、加藤はほとんど一首の外に
押し出すことがないため、作品の意味的な了解性は高いが、それでも
一首を読み下ろしたときに生じる冷たい感覚の、その出所を解き表すのは
易しいことではない。
 ただそういう意味での「高度さ」が歌集の前半に多く出ていて、
収録作品一覧で確認すると、後半の現在により近い作品になると、
あまり出ていない感じがするのがよくわからない。


*噴水のまばゆい冬のひるさがり少女は影に表情がある/加藤治郎


 とかが私の言う「高度さ」があまり出ていない−その分歌には
高野公彦的な「含み」があるように感じられる−歌である。
 とはいえ、加藤の歌集は短歌文庫等ですべてが買って読もうと
思えばそう苦労せずに手に入れられる状況である。
 若い世代による加藤治郎論もそのうち読めるだろうと、それに
ひそかに期待している。


で、「文藝ガーリッシュ」ですが。
膨大な教養から何を引き出してくるか、というのは、
佐々木六戈と佐佐木敦では違うし、吉本隆明岡井隆でも全く違う。
ここでいう教養というのは、そう複雑な意味はないが、
全国の鉄道の線路脇の広告看板の夜間の清掃にたずさわる業務で、
年間どれだけその職務者が業務中に事故で亡くなっているかを、
把握していたとしても、そんなものは教養とは呼ばれない。
ある意味では「知識」ですらない。
基本的にはそんなことは「どうでも良い」からである。
だから、どこかで「どうでも良くない」ことになっている、
「情報」や「知識」、あるいはその集積や体系を、
「教養」と呼ぶのだと考えて(普通は)さしつかえないと思う。
ということで千野帽子さんですが、彼の「膨大な教養」
(この言い方がまずければ単に「尋常ならざる読書の経験」でもいいですが)
は私のサイトの千野さんの読書リストでその一端をかいまみられます。


http://homepage2.nifty.com/masaoka/linkp01.htm


そんな千野さんが「文藝ガーリッシュ」という名の下に創造したひとつの
「ジャンル」に日本の文芸作品をまとめてあげていったのが、
この本だと、うーん、いっていいのかな?
あんまりスマートなまとめ方でなくてごめんなさい。
文体は、四方田犬彦さんの真っ赤で小さい映画ガイドの
『ドルズ・ハウスの映画館』とちょっと似てるところがあります。
本の紹介部分はともかく、コラム的にはさまれた「文學少女の手帖」という
いくつかの文章が、です・ます・調で書かれた戦闘的文化論って感じで
読ませます。でもやっぱり二十代や三十代を創価学会の男子部活動に
かなり費やした私には、こういう「オリーブ」「植草甚一」などという
「単語」とは全く無縁な人々が大量であるところにいたので、
(そのかわりみんなシモン・ボリバルとか、ホセ・リサールとかは、
ルネ・ユイグとかとほとんど並列的に(!)知ってるわけよ。
この違和感というか文化的偏在性を見よというか。
別に見なくてもいいんだが)
中井英夫流に「遠い潮騒を聞く思いがする」とでもいいましょうか。
ただそういう個人的感慨は別にして、なんか姿勢が攻撃的な感じがする(^^;)
文化論的な叙述に「一人七社共同宣言」というか、
混乱の様相に治をもたらそうとするようなアクティブな勢いが感じられて、
最初の方を読んで「これは新書で出してもよかったんじゃあ・・・」という
思いはかき消えて、最後の方は結構とばし気味で読了してしまいました。
でも別に威圧はどこにもないんだけどね。
ただなんか自分がまっとうに生きているということを主張するだけで、
今は「それは威圧だ!」とか言ったり感じたりするひとが少なくないので、
しょうがないですかねー。
あ、紹介されてる本の中で、私の読んでる本は二三冊です。
いやあ、小説ってね、みんな「関係」のお話でしょ。
町を歩いていて「まっぱだかの女のひとがスタスタと歩いていた」としても、
それに関心を持たなきゃ小説にならないというかね。
じゃそんなにあなたは世間にも他人にも無関心なのかと
いわれると困るんですが、小説というのは
「いろいろなことを気にするひとたちの話」という感じが、
このごろどうしてもついてまわって、あんまり読めないんですわー。
わずか六行でセレブリティの再定義を現存在的に構築する(嘘)
犬養道子の『花々と星々と』の紹介のイントロとか、
脳内少女というコンセプトでコンパクトに「現在」からの
倉橋由美子への魅力的な視点を提出するコラム、
「脳内少女を懲罰する」とか、
あなたと今同時代に生きてるひとがこういうことを考えてるのだ、
ということが十分におもしろい文章がいっぱいつまってます。
紹介されてる本はおおむね今手に入れやすいもので、
中には月曜社から出てるような「マリグナントバリエーション」の
トールケースの横に並べていいのかどうかと考えてしまうヴィヴィッドな
本とかもあるわけですが、ま、それはひとそれぞれ。
ご用とおいそぎでない方は、ご一読を。