素晴らしい猫

◇読んだ本


ショートソング (集英社文庫)

ショートソング (集英社文庫)



素晴らしい・・・・。


素晴らしい本である・・・・・・・・・・・。


・・・・・・・・・・・・・・・。


が、しかし。
いくら私がこの本を「すばらしい」といったところで、
「へえ、なら読んでみよう」という読者が同じように思うか、
よくわからない。私はひとが高く評価する本を、特に小説や短歌の場合、
ほとんど同じように評価したり感動したりしないからで、
その逆のひとびとが、私と同じように感じるはずがない。
「好き嫌い」というのは、人間が最後に行使できる自由のひとつだ。
そして、枡野の新刊のもう一冊、『結婚失格』で書かれる
「人間扱いされるのってこういう場所では難しい」という意味のセリフに
象徴されるように、私たちは人間扱いされていないような、ナチュラルな
プレッシャーの中にいつも、いつでも、ある。
だからこそ、年寄りはわがままになるのだし、
記憶の中にある食物に固執する。
だからこそ、擬似的なデータ化による自らの「実在の自分」からの
「疎外」が、ネット上で「悪意」に見えるものを産む。
私たちは「好き嫌い」でしか人間の証明が出来ない。
だから、極端な「賛美」はそれなりに控えるべきなのだ。
それはわかる。
それはわかるが、
茶店でいっきに読んだあと、
泣きそうな気分をおさえることが出来なかった。
なぜか。


作中の、短歌を書くことに関わりながら、
恋をしたり、エッチをしたり、働いたりする何人か、
そして、その何人かの目にうつったものとして、
語られるたとえばつぶれかけのレンタルビデオの店長とかが、
あまりにもカッコよかったからである。
なぜカッコいいのかというと、
作中のそれらの人物が「自分というファッション」
「時代というファッション」を実にさりげなく、
しかし実に強靱にかつ頑丈に、
身から、魂から、はなすことなく、それぞれのプロットを
かたづけてゆくからである。
作中の人物たちが作ったとされる短歌は、
多くが「かんたん短歌」に関わった若い、
穂村弘などとはまったく違った意味での)
伝統的文化感性としての短歌制度から距離感を持つ短歌作者や、
枡野本人の作った短歌である。
穂村弘には逃げ道のなさとしてあらわれるその距離は、
これらの短歌作者にとっては、ただの自明や、
枡野にとっては逆説的な自我の形成としてあらわれる。
なかでも宇都宮敦にあらわれる徹底して「政治」から
解放された定型のすがたは、
「身分としての思想」を常にうちにはらむ、
「文化としての短歌」の、現在におけるひとつの典型をしめしていると
いってよい。
もちろんこれは宇都宮の歌が傑作だとか完璧だとか言っているのではない。
私は、徹底されて「政治」から定型が解放されるとき、
「短歌」なら「短歌」がたとえば宇都宮の作品のようなものになると、
20代のころは、全く思っていなかった。
大げさなもの言いになるが、その不明を今は思う。


で、小説に戻ると。
現実として、この小説に出てくるような歌「ばっかり」の結社は
ありえない。
その一点だけでこの小説に批判や嫌悪や否定を持つひともいるだろうし、
たぶんほとんどの歌人は多忙なので、そうした反応も少ないとは思う。
ただ作中人物のほとんどが、おおむね「政治」から解放された、
「感覚による存立の構造を持つ」短歌作品を書くということは、
私にはその作中の人物が、
「決して手放させない大事な何ものか」をもって、その作中の世界を
生きているように見えてしまうのであった。
それが私の言う、「自分というファッション」
「時代というファッション」という物言いになるのであった。
それが、かっこよかった。
それが、すばらしかった。
ただ、「感覚による存立の構造を持つ」短歌作品が、
「短歌」として流通するような世界では、
作者は「感覚の素材」としてしか存在しえない。
「有名になるほど無名になる」
「『政治』によって『言語』から守られることがない」
というかなり冷たい「世間」を作品も作者も生きることになる。
もちろん、「作者」としてこの2006年以降も、
生きるなら、の、話であるのだが。
それは現実の、主に枡野浩一以外の、この小説で引用された、
短歌の作者たちの「人生」の問題であり、
それがかっこいいのかどうかは、私にはそれほど興味はない。


◇岡井全歌集、「夢とおなじもの」「月の光」まで読了。
「夢と同じもの」は、いい歌集だなあ、と思った。
リアルタイムで読みたかったとはさほど思わないが。
もちろん私にとってこのタイトルは、
湯田信子のマンガ「ラジオ・大連」の


「われわれは夢と同じもので出来ている・・・
 シェイクスピアでしたかな?」


という忘れられないセリフとつながってゆくもので、
それは同時にそのマンガの中の母親が夢見た「六月の植民地」からの
連想をつらねて、三浦雅士の『小説としての植民地』へつながって
ゆくものである。
短歌は日本語という植民地の「愛の流刑地」であるなどとアホみたいなことを
言うわけではないが、それでもなにやらどこか「租界での日々」を思わすこの時期の
歌風はなんだか私には好ましい。


歌集「夢とおなじもの」/岡井隆 より


○ぬばたまの大崩壊へなだれゆく清しき朝だから桃が出る


○ぬばたまの黒き頭のかぶと虫この夏は見ず直(なほ)きかぶとを


○性欲の鎮まりはてしぬばたまのうすくらがりの大伽藍かな


とか。
また集中一番好ましかった「恋歌十五−『萬歳狂歌集』に擬す」という一連は、
あとがきを読むと、企画で「狂歌」に挑戦したもの(!)だということ。
それでもこういうものにもいとしさを感じることよのう。
いくつかこの一連から引く。



○だきつきて今宵はわれをしめころせ生き残る世の苦を習ふため


○かしてやりし汗手拭をかへす時血のつきしより思ひそめけむ


○いつしかに君が心も梅の実を、蛇(へみ)のごとくに別けて入りたく



ドリームキャストで「スペースチャンネル5」を動かす。
 こんなゲームだったのか!
 ドリームキャストで「魔剣X」を動かして見る。
 FPSだったのか!
 人生って深いなあ。(そうか?)