あっ、午前零時だ

近代定型の論理―標語、そして虚子の時代 (豈叢書)

近代定型の論理―標語、そして虚子の時代 (豈叢書)



◇えーと。
 これでうまく表示されるのかな。


◇ぼーとしているうちに今年も終わりに近づいてしまった。
 まああんまりこまかいことはいいか。


◇休日。
 去年の枡野浩一さんとの東京でのトークライブのビデオを見直す。
 二時間くらいでさすがに飽きてくるのだが、すでにこのときから
 やはり時間がたってるのだなあ、と思う。
 電子出版についてネガティブに語っていたことも、
 携帯電話という「インフラ」がそのまま「ツール」になることで、
 結局それなりの収益をあげる会社も出てきてしまった。
 その他のことも考えているうちに、トークでも触れている
 高山れおなの文章が読みたくなって、「豈」を本棚から引き出す。
 その中で筑紫さんの本の書評があって、
 おやと思ってこれも引き出す。

◇こういう本だとは思わなかった・・・。
 「ネットはいつも自分の知っていることを書いている本にきびしい」
 というのは、ミクシイの切通理作さんの日記での
 枡野浩一さんのコメントで、
 私もそういうところはあるなあ、と思うけれども、
 ネットにはどこかに「広報」への脅迫感があって、
 そこでは「知」というものに妙な屈折感がついてまわる。
 だから私もついつい「自分も」予想外の内容と思った、
 というような本のことを書いてしまう。
 しかし本当はそういうことを予測しなければいけない「読者」
 などいないのだと思う。
 なのにまたこの本のことを、そんな風に私は書くわけだが。

◇「近代定型の論理」は三部に別れていて、一部は「近代雑俳の展望」。
 ここで筑紫は確かにほとんどの人が知らないであろう「近代雑俳」を
 くわしく紹介している。これはもう、この部分だけ拡大して、
 キャッチーな題をつければ、充分今の「新書」の世界で通用しそうなもので、
 ここを見ていると「ネット」で短歌について語ると(短歌を書くと、ではない)、
 「雑俳」の世界に似てくるということがうなづかれ、
 次に考えさせられてしまう。
 というようなところが、高山の「豈」39号に掲載されている
 この本の書評と、私の感想の違うところだろう。
 「過去」というのはわかりにくいものだ。
 それはいつでも「現在」によって作成されるから。
 筑紫は「大正・昭和初期の雑誌新聞の投稿欄には短歌俳句川柳と並んで、
 (全国版雑俳の代表である)冠句の投稿欄が多く設置されていた。」と書く。
 「冠句」の説明は直接この本にあたっていただくとして、
 高山のいうようにその雑俳作品の評価は、筑紫の「贔屓の引き倒し」
 になっているとしても、そこまでクールになってこのような
 資料蒐集も出来ないだろうなあ、とは思ったりする。


◇第二部の「標語の新研究」はたとえば


 *一銭を笑ふものは一銭に泣く


 という「標語」の「作者」(!)を探し出してしまうという
 トリビアっぽい記述からはじまって、
 矢島渚男ならずとも「それがどないしてん」といいたくなるのだが、
 ここでも「さっき」「きょう」「きのう」を越えての
 「現在に続く過去」へのクールで執拗な思考を
 いやというほど見せつけられることになる。
 なぜならここでは130ページ以上にもわたって「近代の標語の歴史」
 が綴られるのだから。


◇ということで実際としてはそこからはじめて俳句論になる、
 という第三部の虚子論までは読めなかったわけだが
 私にとっては第一部と第二部のむなしさ1000%といった感じもする
 偏執性の方がこころよい。
 「ことばのかたち」の歴史を確かめずにはいられなかったものの
 営為と、「残り行くもの」はなんによって残るのか、に、対する
 「問い」と「不問」がそこに「投げ出されているように思えるから。

◇あっ、一時まわっちゃった。
 寝ようっと。