あっ、午前零時だ
- 作者: 筑紫磐井
- 出版社/メーカー: 豈の会
- 発売日: 2004/03
- メディア: 単行本
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◇えーと。
これでうまく表示されるのかな。
◇ぼーとしているうちに今年も終わりに近づいてしまった。
まああんまりこまかいことはいいか。
◇休日。
去年の枡野浩一さんとの東京でのトークライブのビデオを見直す。
二時間くらいでさすがに飽きてくるのだが、すでにこのときから
やはり時間がたってるのだなあ、と思う。
電子出版についてネガティブに語っていたことも、
携帯電話という「インフラ」がそのまま「ツール」になることで、
結局それなりの収益をあげる会社も出てきてしまった。
その他のことも考えているうちに、トークでも触れている
高山れおなの文章が読みたくなって、「豈」を本棚から引き出す。
その中で筑紫さんの本の書評があって、
おやと思ってこれも引き出す。
◇こういう本だとは思わなかった・・・。
「ネットはいつも自分の知っていることを書いている本にきびしい」
というのは、ミクシイの切通理作さんの日記での
枡野浩一さんのコメントで、
私もそういうところはあるなあ、と思うけれども、
ネットにはどこかに「広報」への脅迫感があって、
そこでは「知」というものに妙な屈折感がついてまわる。
だから私もついつい「自分も」予想外の内容と思った、
というような本のことを書いてしまう。
しかし本当はそういうことを予測しなければいけない「読者」
などいないのだと思う。
なのにまたこの本のことを、そんな風に私は書くわけだが。
◇「近代定型の論理」は三部に別れていて、一部は「近代雑俳の展望」。
ここで筑紫は確かにほとんどの人が知らないであろう「近代雑俳」を
くわしく紹介している。これはもう、この部分だけ拡大して、
キャッチーな題をつければ、充分今の「新書」の世界で通用しそうなもので、
ここを見ていると「ネット」で短歌について語ると(短歌を書くと、ではない)、
「雑俳」の世界に似てくるということがうなづかれ、
次に考えさせられてしまう。
というようなところが、高山の「豈」39号に掲載されている
この本の書評と、私の感想の違うところだろう。
「過去」というのはわかりにくいものだ。
それはいつでも「現在」によって作成されるから。
筑紫は「大正・昭和初期の雑誌新聞の投稿欄には短歌俳句川柳と並んで、
(全国版雑俳の代表である)冠句の投稿欄が多く設置されていた。」と書く。
「冠句」の説明は直接この本にあたっていただくとして、
高山のいうようにその雑俳作品の評価は、筑紫の「贔屓の引き倒し」
になっているとしても、そこまでクールになってこのような
資料蒐集も出来ないだろうなあ、とは思ったりする。
◇第二部の「標語の新研究」はたとえば
*一銭を笑ふものは一銭に泣く
という「標語」の「作者」(!)を探し出してしまうという
トリビアっぽい記述からはじまって、
矢島渚男ならずとも「それがどないしてん」といいたくなるのだが、
ここでも「さっき」「きょう」「きのう」を越えての
「現在に続く過去」へのクールで執拗な思考を
いやというほど見せつけられることになる。
なぜならここでは130ページ以上にもわたって「近代の標語の歴史」
が綴られるのだから。
◇ということで実際としてはそこからはじめて俳句論になる、
という第三部の虚子論までは読めなかったわけだが
私にとっては第一部と第二部のむなしさ1000%といった感じもする
偏執性の方がこころよい。
「ことばのかたち」の歴史を確かめずにはいられなかったものの
営為と、「残り行くもの」はなんによって残るのか、に、対する
「問い」と「不問」がそこに「投げ出されているように思えるから。
◇あっ、一時まわっちゃった。
寝ようっと。