愛のショート・リバーブ
◇はてなダイアリーには、仲俣暁生さんの日記があって、
そこで今年のノージャンルベストブック10冊を選んでいる。
http://d.hatena.ne.jp/solar/20051211
年末なので私も選んでみようと思ったのだが、
なかなか選べない。結局あんまり本を読んでなかった、
ということか。あともう本当にここ二三ヶ月の本のことしか
思い出せないのである。
それでもなんとか五冊選んで見る。
順不動。
1『荒東雜詩』 高山れおな 沖積舎
2「DTMマガジン」2005/9月号 寺島情報企画
3『逢いたくなっちゃだめ』
写真/板東寛司 俳句:選と文/青嶋ひろの あおば出版
4『あるきかたがただしくない』 枡野浩一 朝日新聞社
『荒東雜詩』は、フォントの選択から句や装幀に到るまで、
首尾一貫した「志」のフォーマットが輝かしい。
正式な書名の「荒」の字体はこれではないのだが
勘弁願いたい。
「DTMマガジン」は、現行の民生パソコンとフリーもしくは
十万円前後の機材投資で出来る音楽制作の現状を単純に提示
してくれたため。
たとえば同じはてなダイアリーで全然知らない人だが、
2005年フリーソフト10選というのをやっておられる。
http://www.tokix.net/cgi/mt/mt-tb.cgi/178
個人的なセレクトだとこの方も言っておられるので、
選に何かを言うことはないのだが、
なぜか最近はこうしたソフトについては「ブラウザ」の
話に重きがおかれていると感じる。
そういうところに身をおくと、現在のソフトウエアシンセの
総体的なモダーン化というのは使用価値が存在しないから
情報としても提示されないし受容もないということになる。
この号のDTMマガジンは最新音楽フリーウエア&シェアウエア
の特集で、ちょっとノリのいいNHKの講座っぽいソフトの
紹介や音楽制作の実例などは私にはとてもおもしろかった。
『逢いたくなっちゃだめ』は、詳しく書こうと思ってるうちに
日がたっていってしまっているが、
板東寛司さんの猫の写真に、青嶋ひろのさんが選んだ俳句を
レイアウトし、各句の短文解説をまとめて一冊にしたもの。
俳句や短歌だけでなく、ものごとは「発生論的」に扱うか、
「存立構造論的」に扱うかで様相を大きく変える。
ということはこの日記で何度かは書いたことだけど。
俳句の場合はどうしても「発生論的」な取り扱いが
重要視されるし、価値付けがされる。
それはそれでしょうがない。
明示化された「金銭」や、「名誉」なり「身分」という
明示化されない「金銭」はそこでしか流通しないから。
それでも21世紀の今、本当に俳句とはそんなあほみたいな
カルチュラルなものでしかないのか、という疑問は残る。
たとえば、高橋陸郎の『百人一句』は、
三浦展の『下流社会』と背中合わせである。
日本でのカルチュラルなものに属性としてついてくる、
通常の価値観や通俗的な価値観を背後にそれらは
書かれ、作られている。
しかし本当にそうなのか、という疑問は残るのだ。
青嶋さんがこの本で選んだ俳句はわずか60句。
作者の存命非存命、有名無名、「昭和」であるとか
この句は残さなければ、という使命感と分離不可能な
自意識、とはほとんど−私見では全く−無縁である。
この本で目にすることの出来る俳句は、
要するに前衛伝統といったヒストリカルおよび
セクション意識から限りなく遠いのである。
しかも猫の写真とレイアウトされた部分の俳句には、
作者の名前が併記されていず、
(おお、第二芸術!)
作者名は解説部分で表記されるのである。
にも関わらず、「俳句」が現在もなお、
「何ものか」でありうるという明るい肯定性に、
この書は満ちているのである。
そしてそれはまた「世間の冷たさ」というものも、
また暗に表明しているのである。
何はともあれ私は単純に目をみはった。
『あるきかたがただしくない』もまた「世間の冷たさ」
を逆説的に書いた本である。
おまえ、マサオカはそんなに冷たい世間に生きてるのか、
というとそんなことはない。そんなことは、
ないんだけれどもさ。
◇四号分の代金4200円を間違って4000円振り込んだら
丁寧にその旨を封書で送ってくれた風媒社から、
「短歌ヴァーサス」8号が届いた。
今回ははやいなー。
特集は「加藤治郎を探る」と「短歌に評論は必要か」で
まだ斜め読みだが、穂村の加藤評がやはり光っている。
ネット上でのサイトの多くが「否定」の感覚に支配されて
いる、というのは、私も反省させられる。
意識してかしないでかは知らないが、確かに
ネット上にあるのは「サイト」であり、
言説でも意見でもないとも言ってるようにも
見える。
個人個人でそう思うのは難しくはないが、
集団で語り合うときにそれを認め会うのは、
意外に難しいかも知れない。