象徴をつくろう
◇読んだものから。
*『竹沢先生と云ふ人』 長輿善郎 (筑摩現代日本文學大系36)
*「ナンバーワン・コンストラクション」 鹿島田真希 (「新潮」2006/1月号)
*「ドストエフスキー [3]」山城むつみ (「文學界」2005/12月号)
◇しかし。
松浦寿輝(「明治の表象空間(1)」・新潮1月号)にせよ、仲正昌樹
(「実践的思考序説」第十五回・文學界12月号)にせよ、どうしてそんなに
森善郎の「日本は天皇を中心とした神の国」「神の国」を引用するのだろう。
◇鹿島田真希といえば三島由紀夫賞の受賞者なんですが、220枚という
この小説が初読。面白いと素直にいっていいのかどうか少し躊躇するけれども
おもしろかった。話が主に大学の研究室とかで展開するので森博詞の初期の
講談社ノベルスみたいです。セリフまわしが(「なんですって」とか「**して
頂戴」とか)微妙に様式的なのですが、これは話が、たとえば新書の『下流社会』
なんかでは世の中に存在しないものになっている「形而上学」を巡って展開するからで、
本郷猛が仮面ライダーに変身するみたいに言動が瞬間や場面でエレガント
(セリフがあまりにも通りよくて無意味さをはぶかれているのでとってもエレガント)
に変身することで、それぞれのキャラの強固な関係意識をあらわしてる
とこがかっこいいですね。
途中アブラハムとイサクの物語が引用されるんですが、文學界で不定期連載されてる
山城むつみのものにも執拗にこの挿話が引用され展開されてるので、
これも流行なんでしょうか。ま、単なる偶然ですね。この回はデリダがある200人ほどの
聴講者のいるセミナーで「アナタハ神にツイテドウ考エテイルノカ」と聴衆の一人に
端的に質問されて、この「イサク奉献」の物語を述べて、「神とはそういうものだ」
と云ったとかいうところから山城の文章ははじまってるんでしょうがないですね。
『罪と罰』(ニンテンドー64のソフトに非ず)なんて十数年前に読んでから
まったく再読してないので、よくわかんないとこも多々ありますが、
多少おおげさめの文体で「神」や「愛」や「おとなしい眼」について、
ちょっと懐かしい感じのする思考を重ねてゆく文章は、
マクドナルドで隣に座った男が一心不乱にパソコンに打ち込んでいたら、
たぶん鬱陶しいだろうけれど、文芸誌に掲載されるというのはそれはそれで
まっとうなことなので、そのまっとうさの文脈の中で引きつけられて
読み通してしまいますね。
鹿島田真希の小説も、教授と学生の変形した書生小説(漱石のいくつかもそうですね)
だと思うんですが、やっと読めた長輿善郎の小説も大正期の文人を親しかった学生が、
追慕して書くという構成で、鹿島田さんのものにくらべると、キャラも言動も
バックになる世情もきわめて暢気で、そこをゆっくりと自然主義的な議論をかさね
ながらひとが年取ったり死んでったりするという話で、とにかく見慣れない漢字を
うつくしく感じてしまうのは私が無学だからですか。
「巫山戯(ふざけ)る」にせよ「お暑う厶(ござ)います」にせよ、
そういう漢字表記が生きていた時代の文章の魅力で、
なんとなく短くはない話しも読んでしまった。
◇頂戴した本
*『逢いにゆく旅 建と修司』 喜多昭夫 ながらみ書房
*『逢いたくなっちゃだめ』 写真/板東寛司 選と文 青嶋ひろの あおば出版
青嶋さんの本は希にみる傑作本。
繊細はいずれまた書きますが、ほんとにすばらしい。