解体の条件

◇読んだ本

趣都の誕生 萌える都市アキハバラ

趣都の誕生 萌える都市アキハバラ森川嘉一郎幻冬舎



◇文章そのもののわかりやすさという点では最近読んだもののなかでは
 ベストといっていい。そのわかりやすい文章で語られるのは、
 アキハバラの変化に代表される、日本の「趣味」の変化の
 文化論的分析である。
 その基本は、「<未来>の喪失」、「<未来>は過去の中にしかない」
 というこころの現状であるといってよい。
 深くうなずくような箇所がいくらでもある。
 そのうちのひとつが「東京」の問題である。
 本書では押井守の質疑応答を引用して、アニメ・マンガが場所を特定しない
 限りそれは「東京である」となるライトな黙約の実在を証明している。
 これは実は短歌や俳句でも似たような強制力はあって、
 歌集名に『東北』や『饗庭』や『香貫』や『人生の視える場所』とつけようが、
 それは必ず「東京」からの弁別、という意識を孕んでしまう。
 本当の意味での「ローカル」など存在しない。
 ただ「東京」とは違うエリアで擬似的な「東京」の物語、
 「セントラル・ローカル」の物語が語られていると考えて良い。
 ここにはもうひとつの日本詩歌の近年の現状の反映もある。
 戦後、読者の量も、文化的な影響力も確かにあった、
 (そのことの功罪はここではひとまず置く)
 「戦後詩=現代詩」の、作品面、文化影響力の面での
 「権威」の失墜である。
 一種のジャンル間の伝統的な力関係として、詩誌で「短詩形文学」が
 特集されることはあっても、短歌や俳句の雑誌で「詩特集」などが
 組まれることはいまもこれからもありえないように、
 制度的なヒエラルキーの残存は確かに残っている。
 しかしもう俳人歌人も「詩人」に評価されることが、
 即ち現代の文学の前線に出ることだという思いこみは
 ほとんど持っていない。
 それは総合誌への作品の掲載の頻度や、歌壇内部の各種の「賞」しか
 歌人としての自己実現や文学性への評価を求めるしかないという
 クローズドな風潮の進行を加速してゆく。
 こういう書き方は、そういう現状を批判しているように
 どうしても見えるのかも知れない。
 いや批判しているのかも知れないが、私としては、
 そこにこうした「セントラル・ローカルの物語」があるなら、
 逆に何とかして「ローカル・セントラルの物語」を紡ぎだして、
 レジストさせるなりエンカウントさせた方が
 おもしろいのではないかと思っているだけである。
 ただもちろん短歌に限って言えば、短歌の問題は韻律の問題だから、
 「ローカル・セントラルの物語」を他ならぬ自己の作品の韻律に
 込められる、あるいは最初からインクルーズされているものがすでにいなければ、
 私の理屈は「これよりもっとうまいカツ丼がある」と言ってるだけ、に
 等しくなる。
 いないのか、いるのか、というと一人だけいる。
 しんくわである。
 そういう意味で、限りなく秋田書店的な相貌を持つ彼の
 「卓球短歌カットマン」の連作に、


 真っ白な東京タワーの夢を見た 今年は寒くなればいいのに


 の一首があることは、その下句の「これは言葉が動くんじゃないか」という
 非成熟感とともに、象徴的だと私は言っておく。


◇もうひとつは、「塚本邦雄=『月姫』説」というものである。
 この森川の本の中では、同人ゲームソフト『月姫
 (私はこれをやったわけではない。と書くのは、
  単に補注の意味である)
 と、新海誠の『ほしのこえ
 (これも見ていない。見とけよ、オレ。)
 について、「アマチュア・スターの出現」というサブタイトルで、
 10頁ほどの文章が書かれている。
 詳しくは本書にあたってもらえれば良いが、
 実際、60年代からぎりぎり80年代初頭あたりまで、
 短歌作家は一割弱ほどの似非塚本短歌と常に隣り合わせで
 作歌していた。
 私個人としてはそれは懐かしくはあるが、その懐かしさは
 自分の卒業した小学校に感じるのと同じもので、それは別に問題ではない。
 「<未来>の喪失によって中央集権から個人化へと移り、さらには
  個人化から非社会化へと向かう技術観の変化」
 (『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ森川嘉一郎:229p)
 を塚本邦雄と戦後の歌壇についてかさね会わせて見るとき、
 「趣味」の問題、「宗教」の問題にそれはなにがしかを付与するように
 思えてくるのである。
 さきに短歌の問題は韻律の問題と書いたが、穂村弘が言う「ひとりひとりの
 実存の根拠を問い直す」(『短歌という爆弾』242p)ことの問題と、
 言ってることは同じだと思う。
 実存とは何かというと、かつては「実存主義者が考えていることが実存である」
 でよかったのである。
 「われらいまこそ権力の前に生身の実存をさらす」(だったと思う。
  さすがにこんなアジビラだかなんだかの文章まで覚えてないや。)で、
 充分だったのである。
 良いも悪いもなく、そういう時代は終わってしまった。
 韻律の問題も短歌史の問題も、「ひとりひとり」の中にかえってゆく。
 それは夜勤明けで風呂にはいってから眠りもせずに、
 一文にもならないネット上のこんな文を四時間ほどかけて書いている、
 私そのものの問題でもある。