降る粉雪に、刺青も濡らさず


◇昨日は、ブックオフに今月号の「新潮」「群像」などがあったので
 まとめて買ってしまう。いっぱい読んでない本があるのに。
 現在は長輿善郎の『竹沢先生といふ人』、上野さち子の『女性俳句の世界』
 などを平行して読んでいる。アルチュセールの自伝とか読み通してみたいなあ。


◇ベストセラー『下流社会』を読了。私はおもしろかったですよ。
 アンケートでは8割から9割が「趣味」にパソコン・インターネットと答え
 ているとか、嘘だろぉ!? とかいう感じはするんですが、
 この著者は「下流社会」という本を書いてるのであって、現在の世界を
 くまなく記述しようとしてるわけではないと考えるべきである。
 いま、生活のかなりの面で階層化の感覚を強く感じる部分は誰でも
 あるはずで、私はこの本読んで「塔」のひとの歌集とかすごく思い出したり
 しましたけどね。


◇「短歌」の12月号の吉川宏志と真中朋久の文章がおもしろい、
 と人に聞いたので、本屋で拾い読み。
 いつかのこの日記でも岡井隆の文章を引いて、歌というのは
 くらべながら作るという、本質的にはひどく神経症的な詩のジャンルだ、
 と書いたことがありましたが、どちらもそんな感じがしました。
 今年の東京の枡野さんとのトークイベントで吉川さんの歌には
 「破天荒な夢」みたいなものが欠けてるというようなことを
 言いましたし、そのときはそのときでほんとにそう思ってたんだけど、
 今はもう本当に自分の存在の基盤みたいなとこから、
 そういうことをインクルーズする必然や空きスペースがないというタイプの
 作歌者もいるのだと思ってます。
 真中さんという人はあったこともないからあんまり何ともいえないんだけど、
 いわゆる「詩が好きな人」というのではないように思えますね。
 こういう言い方だとどうしてもネガティブな感じになるかも知れないけど、
 真中さんの歌というのは茶道の「手前」みたいなものではないんでしょうかね。
 野上彌生子の『秀吉と利休』には、「手前」ということに関するディスクール
 結構書かれていて、そこからの発想なんですけど。
 本人が自作のどの歌をよしとし、どの歌をそうでないと思ってるかは
 あんまりわからないけど、たいていどの歌もひらがなと漢字の配分の統覚には、
 短歌以外の何物でもありえない字面の屹立感を私は感じます。
 ただでは読者はそれを、主に戦後詩にてらしあわせた「詩」の概念を
 かさねて読む必要があるかというと、(もちろん一般的にもそんな必要はないですよ)
 その必然は希薄なようにも思えますね。
 これは内容が希薄ということとはまた違うんですけども。
 橋本努ハンナ・アーレントの短い書評で、
 「社会学の限界から社会の理解を目指す」
 と言ってますが、吉川さんや真中さんがやってるのは
 「短歌の限界から短歌の理解を目指す」
 というようなことなんじゃないでしょうか。
 ウエブから音をたてて歌人たちが遠ざかっていくような気がするいま、
 ウエブでこんなことを書くのも何なんですけどね。
 うーん。