リンゴ輪廻

◇買った本


  1. 「短歌」 角川書店 2005/8月号

南都銀行
 あとUFJ銀行。
 銀行とは銀をはからいせむ部屋か。
 奈良小西通り「シャトードール」2F。
 モーニング。
 パンは二個を自分で選んでお皿に載せる。
 ハムとオニオンのパン。キノコのパン。
 アイスコーヒー。
 朝の会議をさまよっているその午後の。



塚本邦雄の追悼の短歌総合誌
 どれほどこういうものを夢に見たことか。
 ということでとりあえず出たらとっとと買うことにする。
 昨日買った「短歌研究」は座談会が岡井隆・馬場あき子・佐佐木幸綱穂村弘
 佐佐木幸綱から穂村弘までの間の世代というのはいわばこの座談会では
 すっぽり抜け落ちるわけだけど、それはそれでいいのかも。
 別にこの数年間は塚本邦雄はいてもいなくてもあんまり変わらなかったとも
 思うけど、やはり「死んでみねばわからないこと」というのはあるように
 思える。岡井さんなんかのびやかに話してるように私には見える。
 塚本邦雄に対する写実系の歌人たちの嫉妬とも嫌悪とも無理解ともいうものは、
 なかなかこうした所では活字になりにくかったもので、
 結局こうした岡井さんとかそうした歌人達と知遇を得ないと聞けないことな
 わけですね。
 穂村弘の塚本経験談も何かの機会で聴いていた私には特に新鮮でもないのだが、
 馬場あき子がはじめて聴くといった感なのは、なるほど、という感じ。
 こういう岡井/馬場の世代だと話はとにかく塚本の第六歌集あたりまでと
 なるのだが、『歌人』以降の塚本邦雄というのはどうなるんでしょうねえ。
 「アルカディア」の新人世代の塚本邦雄追悼の文を編集したものも
 見てみたいなあ。初期角川短歌塚本選歌欄常連投稿者のものとかもね。
 あ、あとだいぶん省略されてるんじゃないでしょうかね、この座談会。



◇角川「短歌」の追悼は六人のエッセイで、あーこんな少ないのかーと
 思ったら、来月号で特集ということ。
 しかしこの六人の執筆が短くてもやはり亡くなった直後という感の、
 どこかせっぱつまった時間の濃度みたいなものがあって、
 これはこれで氷が溶けるまでのアイスコーヒーみたいな味がある。
 岡野弘彦は「日本脱出」の歌について。
 私はこの歌は、学燈社かどこかから1979年ごろに出ていた黄色くてくそぶあつい
 「和歌の解釈と鑑賞辞典」といったものに数首塚本の歌がはいっていて、
 それでそのころ初読したと思う。当時まだ田舎の高校生にはなかなか塚本の歌集など
 読めるものではなかったから、おーこれが塚本邦雄の歌かー、と北大和高校の図書室
 でわかるもわからないもなくありがたがったような記憶がある。
 この岡野の文は、とにかく「敗戦国」としての日本人の心性を塚本の一首にからめて
 語ったような一文で、「あの耐えがたいかなしみに身もだえしながら、敗れたみじめさ
 の国で生きるよりすべのなかった、日本人の辛いなげき」という言葉が最後に書かれて
 あって、濃厚ですな。
 私は創価学会員なので戦後のイメージのある程度は池田大作著『人間革命』の最初の
 数巻と9巻の東京裁判の長い長い著述に助けられてます。それはまあ吉本隆明の『言美』
 の「構成論」の「戦後表出史に不気味な閃光を放った構成的時間の喪失」とかそういった
 ものもありますけど、「文学と政治」じゃなくて「宗教と政治」という点から言えば、
 数百年単位の日本治世史のなかでの「信教の自由」が公的になしとげられたのが、
 戦後のひとつの意味だ、というのは大きいのですね。
 そういう観点から言えば、戦後とオウム事件というのは直結しちゃうんですね。
 だからいまも「敗戦」の心性を濃厚にうちらに抱え持つ知識人のこうした一文を見ると、
 まだまだたくさん死ななくてもよさそうな人(それはわかりませんが)が死んでいくんだ
 ろうなあ、とは思いますね。
 岡井さんの一文は、読売新聞の一文や葬儀の弔辞からくらべるとかなりしんみりとした
 一文。
 馬場さんのは数年前の「短歌朝日」の連載の回想のような、しっかりした距離感の
 ある一文。なんで「あしひきの山川呉服店」がこんなに人気があるのかしら。
 これだけおぼえてるということかな。
 佐佐木幸綱のも一番塚本さんとの接触度が高かった、60年代前半の思い出。
 当時はまだ勤め人だったはずの塚本さんはどう自分の時間を使っていたのだろう。
 ひとの話では、会社員時代は、「日本一ゆれる電車の片町線」(というのは昔MBSのラジオ
 「ヤングタウン」の投稿葉書に書いてあったのを松福亭鶴光が読んだのを聴いて
 覚えている形容)に毎日朝早くに乗って、会社の近くの喫茶店に早朝からはいって
 歌を作ったりしていた、とかいうけれど、こんな話はそのうち誰かにかき消される
 かも知れない。
 永田和宏は自分がもう塚本が死んでコメントをひとから依頼されるような時代になった、
 ということに感慨深げ。読売文学賞もらってなにいってるの、とかも思うんだけど、
 それははたから見ている感覚で、内側からはそういうものかも知れない。
 来月の永田*三枝対談は楽しみ。
 基本的には塚本邦雄の書く物は一種の「復讐譚」だったと思うので、
 その執念の元素みたいなものは、これからも歌人たちのこころや脳やらに
 いくらかはまじっていくんでしょうなあ。
 でも生きて、まがりなりにも短歌書いてるという状態で、追悼雑誌読めてほんとによかったわ。



◇読んだ本

*『光の引用』  山下泉  砂子屋書房

 「塔」所属の女性の方。処女歌集。『旅する人々の国』(読んだぜ! 昔!)の山口泉とは
 まったく関係ありません。
 えーと。いやあ、最近の歌集ってよく考えるとあんまり読んでないんで、何とどう比較したら
 いいんだかあんまりよくわかんないですなあ。そういう意味で、穂村弘になんというかちょっとした
 羅針盤っぽい批評の方向性を歌人なり歌壇なりが無意識に期待するのはよくわかりますね。
 たとえば「グリーン全集」というのが出てきます。
【(・)印は全て山下泉『光の引用』より】


・グリーン全集売りしことあり朝の風後ろ向きに吹くふくよかな日々


 これはグレアム・グリーンのことなんだかジュリアン・グリーンのことなんだか、
 それとも別のグリーンだか私にはよくわかりません。それが「ひっかかる」というのが
 山下さんの歌集の全般にかかっているような気がします。


・春樹さんの新作はまだかねと老婆のごとくまばたきをせり


 これも村上春樹だか角川春樹だか。
 そういうところでこの歌集、少し難しいですね。
 あとナチュラルに省略されている実生活、主に成人してからの父母兄姉弟というのも、
 私にはわかりにくいのですが、これは私の経験不足からかも知れません。


・ゆえありて家族となりし弟の妻は白魚 水の影ひらく


・子の齢犬の齢とまじらうを告げいき兄の巣のような声


・弟の手紙の肩よりひらきくる西欧の空の神話の青さ



 こういう歌と「現実からの幻想譚」っぽい歌がつながりつつなんだか
 相殺されるような点もあるようで、そこももどかしいといいましょうか。



・海に向くテーブルを恋う姉妹いて一人はリュート一人は木霊
     (好き嫌いで言うとこの歌は好きな歌なんですが)


・口の中に夜明けの星は目覚めたり夏の終わりの死者を呼びとめ


 感覚的には倉田比羽子さんの詩の世界に少し近いように思えますね。
 ただこう高安国世の「空よ虚像の鳩ら散りばめ」という感覚のような、
 理知的なところで感覚的飛躍を果たそうとして壁にあたって、
 山下さんの場合は、自らの女性性に地上に
 引っ張られてるようなそんな感じもします。
 栞文で浜田到を持ち出さない山田富士朗はえらいですねえ。
 別に歌壇に絶対的な評価を受けたくて人は歌集を出すんじゃないけど、
 「一般解」のような形で「歌壇の評価」というのを想定しないと、
 今歌集って読みにくいんですよ。
 それは今月の「短歌」の「歌集歌書を読む」の山田富士朗の一文、
 特に「国民文化祭行橋市連歌企画委員会編『現代と連歌』」や、
 「盛田志保子随想集『五月金曜日』」「穂積生萩『釋迢空:この愛のうたを』」
 等の短い批評文からもあきらかではないですかね。
 とはいえ、この山下さんの歌集は、先日の「SORA歌会」でも批評会が予定されて
 いるようなので、その後にでもまた。