邪悪の邪、夢想の夢、えぐくとろけるきゅうりジャム

◇読んだ本

*『夜の果てまで』 盛田隆二 角川文庫

夜の果てまで (角川文庫)

夜の果てまで (角川文庫)

ストップしていた290頁から、もう一度読み始めることにして、細部は飛ばして
ようやく読了。やっと読めた・・・。うれしい・・・。というか読み終わったら
それはそれで思わず立ち上がりたくなるような行動への希求感が身体的に起こる。
それはそれでおもしろかったというべきなのだが、その行動への希求感を、
こういう小説の登場人物達に感じさせられるのはなんだかいやだなあとかも
思ってしまうので、そこで若干の留保はつく。さて290頁というか300頁あたりから、
ようやくこの小説は「退屈」でなくなるのだが、それは基本的に「それまで書かれて
いなかった=読者にも作中の主人公にも知らされていなかったところの=ヒロインの
過去」が語られ初めるからである。
今小説というのは全般的にほぼミステリーじみている。小説自体が、小説と言うより、
「中身の見えないひとつの箱」のようなものであり、「読む」ことは「開けてその中を
見る」ことに等しくて、「その小説がどんな小説かわかったときに」その小説は読み終わる
ことになるように書かれているからである。これを小説というのは私は少し抵抗があるので、
ここで「ボックス・ロマン」と仮にそれらを呼称したい。
さて、本作では、その女性の過去が語られて、それを知ってうだうだする主人公と、
過去と現在の相克や止揚に感覚的にも行動的にも苦しむ恋愛の相手の女主人公との物語
にそこではじめて化すわけで、そのときに長かった序盤そのものが登場人物たちの
ロマンティックな情熱のからみあいに転化される。
「なんにもない人生」と「いろいろある人生」とでは、実は「なんにもない人生」など
ありえないという点で等価なのだが、ロマンティックな情熱の絡み合いという香辛料を
まぶされると、「いろいろある人生」の方がより味覚として濃いものに思える。
ゆえに300頁あたりから、脇役として「いろいろある人生」の代表格のような、
悪事を働く人間が偶然のように登場してきて、物語の色彩の濃度をあげる。
最後には、人生をロマンティックな情熱で染め上げて青春期を脱する主人公の
決意に満ちたワンシーンと、それへの行きがかりを補助する、副登場人物群の
「過去」の集約であるかのような、女主人公の義理の息子による「導き」のエコー
を響かせることになる。
そしてそれらが、小説の中の時期としても、読む対象としての私たちの感受する時代としても、
離婚率の増加(=極端な宗教・宗教的通俗の禁忌からの小解放)や、
家庭における理想の子供数の「統計」としての減少の「一面」に
ささえられていることはあきらかである。
単なる自分の「経験」が、他者には「知らせないことは隠蔽となる過去」となってゆく、
通俗的な関係論的錯綜がそこにはある。
しかしそれはあくまで「一面」ではないか?
とは思うのだけど。まあ小説は難しいよなたぶんいま。



◇読みつつある本

*「ファウスト」vol5 講談社


この800頁もあるくそぶあつい雑誌には、(流通としてムック扱いかどうかはわからない)
クイックジャパン」の初代編集長の赤田祐一
ヴェネチア・ビエンナーレの「おたく:人格=都市」コミッショナー森川嘉一郎
この雑誌の編集長にしてただひとりの編集者、太田克史によるインタビューが
収録されている。なかでも後者のインタビューには、インタビュアー太田克史
頓狂なエモーショナルさと、まっとうな現在への批判的視点と立場がわかりやすい
話体の活字の中から浮き上がっていて、私はけっこうザビエルした。
ここで本当なら「私はけっこう驚いた」と書くところなのだが、
どうも最近何かにつけて私は、これはちょっと自分の予測外だということには「驚いた」「びっくりした」
と言ってる気がするので、別の言い方をあててみようと思う。
なぜならこうした「驚き」は、「これおもしろいから読むといいよ」と誰かにいわれてたら、
「ほんとにそうだった」という程度のもので、別に「驚けてすごくうれしい、得した気分」などと
いうものではないからである。
そこで、掃除機のほら、あのホースを首に巻いて、「フランシスコ・ザビエル!」といって
見るあの一発ギャグを元にして、こうしたそれほど価値的ではない予想外の驚きに、
「ザビエルする」という動詞をあててみたい。別にはやらせたいわけじゃないよ。
赤田祐一のインタビューでは私も20数号あたりまでずっと読んでいた、「クイックジャパン
の創刊やそれ以降の伝説的な発行事情が語られるのだが、具体的な数字として、
エヴァンゲリオン」特集で7万部、「水曜どうでしょう」特集で10万部という数字が
明記されていて、これがああそうだったの、と言う感じ。
例の雑誌の公称部数の公開ページでは、角川の「俳句」は6万部とされていて、
(ただし印刷証明はなし)話し半分としても(話十分の一かどうかはそりゃわからんが)
3万部で実はすさまじいまでの違いというのはないのである。
さらに亡くなってしまった「ボックス・ロマン」の立役者の一人である装丁家辰巳四郎
鈴木成一菊地信義らの「高踏感」にこの人の業績が隠れたかに見えるのは残念だが、
世界とはそんなもんだ。それは絶対写真においてそうだと思うんだけどなー。文化論的には
荒木とか森山とかいろいろいるんだろうけど、写真って「Beppinn」っで目を鍛えられた
マスターベーション青年の方が絶対ポピュラーだと思うんだけどなー。)
を短く「天才」と呼んでいるところとか、見所は多い。赤田*太田対談は読んでるとからだ
が熱くなる肉体的興奮がある、って書いちゃったけどこの暑い日にこんな文章書いてるおれも
なんだよなあ。あとなぜか高見弘春の特別寄稿が異様に長いですね(笑)。
それに大泉実成さんが赤田さんとが今はそれほど親交がないというのも、あ、そうなのか、
という感じ。そこはやっぱり新陳代謝なんですね。
で続いて森川嘉一郎ロングインタビュー。
新聞等で見た方も多いのではないかと思うが
(というかそれ以外で見た人のほうが少ないはずだと思うのだが)
昨年のヴェネチアビエンナーレ国際建築展で日本人のおたくの部屋、というのを
都市論のあるヴァージョンとして展示したキュレーターの方である。
で、それが今年、凱旋したYMOのように東京都写真美術館で再展示されたのを
太田さんが見ての、この対談となる。
これが「サルでもわかるヴェネチアビエンナーレ」的な森川さんの説明からはじまり、
私にとっては何よりもかつての団地建築批判「きみの父を殺し、母を刺せ」
(だったかね? 柳澤望くん)
の作者である磯崎新からキューレーター指名をされる過程とかがイントロで、
これはもう最初から野次馬的興味にもこたえまくるオードブル&アペリチフ。
そして「人格のブローアップとしての都市のデザイン」という問題がさりげなく
語られはじめる。さらに途中に三鷹市の水道局でのナコルルポスター事件を、
太田さんがはさむところで、かなり話していることの具体性が増す。
(このポスター事件は私は「クイックジャパン」の記事で読んでるはず)
あとそこから「ナショナリズムへの転用」の危険性、を太田さんが指摘するところは、
その会話のたとえば思潮社主催や協賛の詩のパネルディスカッションの超肩すかし性からみれば
夢のようなかみ合い方で、読んでいて感動的ですらある。


◇とはいえ、「いいものをいい」と言える空間の作成は、誰にとっても実は
困難であることはいうまでもない。きょうも夜勤明けなので、あとはメールの返事とか書いて
寝ます。へにゃ。