辰巳さんの日記

◇日本にながい、ながあい、雨降って、
 という詩は会田綱雄だったか、
 藤井貞和だったか。
 今日も雨の近鉄奈良線新大宮駅



枡野浩一さんの近況お知らせが充実。

http://masuno.de/kinkyou/


 枡野さんは
 先日告知した、大阪での私とのトークイベントの翌日に、
 辰巳泰子さんの新歌集『セイレーン』の出版記念イベントに出演するので、
 とんぼがえりになる。大変そうだ。



◇その辰巳さんの日記に、前回の六月のイベントの来場感想から、
 いろいろ私の昔のことやトークの感想などが書いてあった。

辰巳泰子さんの日記「ライブと創作のためのノート」

http://www.geocities.jp/tatumilive/livenote.html

 ロフトでのトークライブが終わって、会場に下りてうろうろしてると、
 来ていた辰巳さんから声をかけられてびっくりした。
 さて、私は1989年に一度短歌をやめている。
 そのとき、自分としては最後の挨拶のつもりで、短歌人のある年輩の婦人の方の、
 歌集の出版記念会に行った。そのときも、その棺桶に片足をつっこんでるといっても
 いいくらいの高齢の「短歌人」所属の婦人の歌に(名前は忘れた)、敢然と
 「この結句は追いつめ方が甘い」(ごめんうろおぼえだけど)といった発言を
 辰巳さんはしていて、おー言うなーやっぱり、とまっとうな意味で私は感心していた。
 それから数年して、ネットで短歌を書きはじめたころ、私はびくびくしながら
 実は短歌を書いていた。誰かに「お前短歌やめるっていうてたんちゃうんけ!」と
 言われるのを恐れていた。また恥ずかしかった。
 「恥ずかしながら帰ってまいりました」というセリフがあった。
 もちろん、それでも、そのときは、生きて帰ってきて、多くの人は喜んだのだ。
 しかし「恥ずかしいなら帰ってくるな」という意見にも、時と場合によっては
 はるかに正当性があることもある。
 もちろんやめようが、再びはじめようが、他人の事は他人の勝手である。
 今にいたるまで、「いっぺんしっぽまいて逃げ出したてめえの歌なんざ
 誰が読むか! ボケ!」と罵られたことはない。
 ただ、漠然と、そういう言い方ではないにしても、「一度歌をやめた人は、
 もう認めない」というような言い方になるとしても、
 そういうことを言う人がいるなら、それは辰巳泰子ではないか、と思っていた。
 それは別に彼女と私との間に何かがあったとかなかったとかではなく、
 「短歌」というひとつの「もの」(「もの」というほかにうまい言い方が見つからない)
 に対するその人自身の関わり方から来る必然、という意味で、そう思っていた。
 2000年の第一回マラソンリーディングで、私は彼女と擦れ違っている。
 言葉も挨拶も交わさなかった。
 なんとなく、私は、それで、「ひとつ終わった」という気がした。
 何が終わったと聞かれると困るし、何かに許されたとかいうのとも全く違うが、
 「いやーまた歌書いてるのーよかったねー」
 「そうなんだよーまたよろしくねー」などという阿呆みたいな会話もなければ、
 単純に旧交を懐かしむこともなく、擦れ違っていくというのは、これはこれで
 まっとうだな、というぐらいの感覚である。
 とはいえ、別に「旧知」や「旧交」そのものをもぎ捨てることに価値を感じていたわけでもない。
 荻原裕幸ニフティで「Re:ポップフリーター川柳?」
 というレスを付けられたとき、それはそれでうれしかったのだと思う。
 (ニフティパソコン通信でのことももう8年くらい前のことだからそんなに詳しくは覚えてない。)
 その荻原さんの結婚式で同じテーブルの隣の席に座った穂村弘に「正岡さん、ですよね」
 と言われたときも(あーなんか話さなきゃいかんのだろーけどなんて話そーかなー)
 と考えていたこちらの焦燥が無化されたみたいで気が抜けた。
 向こうはどうか知らないがあたしゃ気が抜けたんですよ。
 私がそのころあんまりわかっていなかったのは、私が「短歌人」で短歌を書いていたころに、
 大きな短歌のイベントに出てきていたような人々は、ほとんどみんな自分の所属結社の
 集会ぐらいしか出ないようになっているか、完全に「私が歌をやめてから」しばらくして
 歌を書くのを止めていたりしていたということだった。
 そのことをまざまざと実感したのは、2000年の名古屋の「歌合わせ2000」という
 イベントだったのだけれど。



◇辰巳さんの日記にどう反応したら良いか、読んでもわからなかった。
 今もあんまりわかっていない。
 ただ、昔の、若い頃のことについては、特別個人名を出してるわけではないし、そういう所は、
 基本的には冷静なのだろうな、と思っていた。
 また自分なりの理屈で、それはそうだろうな、と思うところもいくつかあった。
 たとえば、「正岡豊は《自意識》を傷つけない場所を、選んで立っている」という箇所がある。
 自分なりの理屈、というのはこうである。
 今歌人というのは「歌集」を出すことやその前後の様々な小事や大事で、一番傷つくのだと
 私は思っている。ちなみに歌集を出すことはただ「歌集を出版する」ことだけでよさそうなのに、
 「その前後の小事や大事」が、死ぬほどの力をこめて引き離そうとしても、
 切り離せないようにして絡み合っている、ように私には見える。
 私はこの十五年、結局「歌集」というものを出していないので、そういう部分では傷ついていないと
 思っている。
 それから、あとからこれはトークライブのビデオを見直して実感したのだが、枡野さんに向かって、
 「はいはい、言いたいことはわかりますよ」という「相槌」を確かに私は連発している!
 というようなところはあるわけです。



◇この話はもう少し続けたいのだが、ちょっと違う方向へ話を進めていったん終わる。
 歌集『四月の魚』の中に、



*つきなみな恋に旗ふるぼくがいる真昼の塔がきみであります

*この塩をガラスがのぼってゆくという嘘をあなたは信じてくれた



 これは、関西の短歌人歌会で辰巳さんと同席していたころ、彼女の名前を
 頭韻沓冠と塚本邦雄が言うやりかたではじめの一音と最後の一音にいれたもののうちの、
 出来のいいと自分で思った二首である。

た−こ
つ−す(これが「つきなみに」の歌)
み−や
や−み
す−つ
こ−た(これが「この塩が」の歌)

 あんまり内容と彼女本人は関係ない。
 あとほかの四首はまったく忘れた。自分で出来がよくなかったと思ったのだと思う。
 こういうことは昔からちょくちょくやっていて、



カリオストロの城を出てゆくクラリスにワインの滴のような朝焼け



 という歌は、ニフティで秋月祐一さんにこの塚本がいうところの「頭韻沓冠」を
 説明するために田中啓子さんの「たなかけいこ」ではじまり「こいけかなた」で
 終わる歌のうちの「か」ではじまって、「け」で終わる歌である。
 あとの五首は同じくまったく忘れた。
 ちなみに今年の題詠マラソンの歌もこの方法で書いている。
 そして一首、最後の一音を間違えてる!
 だめじゃーんそれ。

題詠マラソン001〜017 

ゆ−お:ゆく冬の声のみとなる鳥がいてもう森閑と三橋敏雄
き−お:きみがはじめて見せてくれた下着の色の海に見とれたぼくはトビウオ
は−は:榛の春はつぼみを見ることもなぜだたまらなく悲しいのは(榛=はしばみ)
ま−る:摩周湖のその淡水の中でしか生きてゆけない藻類がある
ひ−か:ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの歌などもまた80年代のサラダか
る−な:ルリタテハって幼虫の時はオニユリの葉をばくばくと食うんだってな
の−る:のっそりと這うカタツムリ このぼくに発見されたくない傷がある
ま−お:まごうことなきはるぞらとなり鞄屋の店先で猫は振るよ猫の尾
ゆ−き:弓張月がふと春山に 眠る前開こうか照敏編「歳時記」
か−に:閑吟集桜の下でひらかむと線路をなにげなしにわたりき(これが間違い!)
ざ−は:ざぶざぶとセーター洗えば遠くなる一期一会の冬の京都は
ら−ゆ:ライ麦畑で失くした紙のメガホンがぼくを呼ぶのかシモーヌ・ヴェーユ
む−き:昔おとこありけり不惑の恋病みにあわれ西京漬を焦がしき
に−の:「逃げなけりゃがんじがらめになる」というそれは主義なの?三日月湖なの?
ひ−ふ:ひむかしの音信不通の友ははや 柄まで冷たき果物ナイフ
と−る:トノサマバッタがぼくでホタルイカがきみで湖は西からたそがれる
が−も:ガミラスの隣がイスカンダルなのも知らない2005年の子供

 言わずと知れた塚本の歌の音を最初と最後に取っている。
 77577だと33音になるので、これを三回やって99首、あと1首を普通に読めば
 あがり、と考えていたが、最後の一音が昔こういうことをやったときよりはるかに難しい。
 そのことには意味があるはずだと、色々考えたが、ちょっと前のことなので
 忘れてしまった。