冬のオート・デテクト
◇引き続き「岡井隆全歌集4巻」を読んでます。
「大洪水のあと」とおぼえていたら『大洪水の前の晴天』だった!
なんとなく「あと」の方が、昔々のまだ金髪の幼女が表紙の
写真に使われたころの別マに、
たまに載ってたファンタジーマンガっぽいんですけど。
あと岡野弘彦の『バグダッド燃ゆ』という歌集のタイトルを見ると、
私はメガドライブの「ソニック・ザ・ヘッジホッグ2」の
4面か5面の海上石油プラントのステージの画面を
なぜか思い起こしてしまいます。
◇で、唯一買って読んでいた歌集『ヴォツェック/海と陸』に入ります。
再読してみてもこの歌集がかなり密度の高い作品群のように
私には思えてなりません。
というか、「現代短歌・雁」に載った「東京オペラシティコンサート
ホールまでの細密な記憶の再現に向けたエスキス」という長ったらしくて
あんたは宇都宮敦か! 的なタイトルの一連は(あ、もちろん岡井の
作品の方が先に書かれてるのでこのツッコミはおかしいですな)
雑誌で初読のときからとても印象的でした。
これは端的に言えば、とても「現代詩っぽい」一連です。
書いてあることの背景、もしくは「現実に起こったこと」は、詞書きや歌の中の
断片的な情報から一部はわかるわけですが、
それはあえて順序を混乱させているんだよ、と読者にいわんばかりに、
構成されています。
ここではつまり「わからないこと」が一連や一首の中で「わかること」より
価値が高いように設定されているわけですね。
一歩間違えば難解な自主製作映画になりそうなその「設定」を、
「筆触」と「韻律」によって見事にタクトを振りながら、
(活字が印刷されている)誌面の「騒擾」の「音像」を、
ぴたりと静謐の最後のフェルマータへと着地させていると
私には思えます。
自らの高齢を感じ始めた20世紀末の都市生活者である男性の、
「孤独」と「自愛」を意識します。
それら孤独や自愛を過剰に意識するならば、「音楽」や「絵画」という
「文化−それもまた「悲」の匂いのする西洋の−」の対象物とその鑑賞者の関係は、
「加虐者」と「非加虐者」の関係にたやすく移行してしまいそうに見えるわけです。
そのこころのゆらぎをつなぎとめる物を私は「自尊心」と呼ぶわけです。
(作者の岡井隆はなんと呼ぶか知りませんけど)
ということで剥き出しの都市が見せる悪魔の壁のような圧迫感に、
「アヴォアヴォ」や「「オヴァーナカヴァナ」といった無意味な発語で
あらがって見せる一人の人間の「像」を私はこの一連に見てしまうんですね。
◇そういう一連がほかにもあるかというと、最後の「曙(ドオーン)ほととぎす」が
少し似ていて、こちらは構成的にさほど了解性を取り除いていないのですが、
そのはろばろとした一連の感覚は時野慶子の長めの詩に少し似ています。
また同じく詩人の倉田比羽子に少し、あるいは関口涼子にも
少しあるのかも知れない、今では滅多に見ることの出来ない、
見えたところでこれまた今ではほとんど何の価値もない、
言葉の発光のようなものを感じたりします。
稲川方人はひょっとしたらまだ「価値がある」と思ってるのかも
知れないですけどね。あんまり稲川を追いかけてるわけじゃないから
よくわかりません。
◇というところで、なんだかあんまり分厚い割に評判がよくないような
「気がする」(気がする、だけです)『臓器(オルガン)』に入ります。
ただいま546頁。エンディングまで泣くんじゃない。