49歳からはじめる短歌・俳句・川柳・連句・現代詩入門(第三回)(

◇第四回目を書きました。


◇お前はキャントゥーズを読んだことあんのか?
 とか言われそうだなあ・・・。
 ボリビアの詩人タマーラとかみなさん知ってますか?
 ボリビアではどれくらい読まれてるんでしょうねえ。
 詩歌はわからないことだらけですねえ。


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◇身銭を切ろう、足を使おう



 ある日テレビをつけたらニュース番組をやっていました。
 特集のコーナーみたいなものがあり、失業した青年が、次の職がなかなか見つからない
といったたぐいのものでした。もちろんやらせかどうかなどは私は知りません。
 ただ驚いたことがひとつありました。
 履歴書や面接の話を取材の人としているうちに、その青年がこういう本を買っていると
いって『わかりやすい履歴書の書き方』といった種類の本を、押入れから一抱えほど出し
て来たところです。
 二冊や三冊ではありません。山のようにというほどでもないですが、ええ、そんな本い
っぱい買ってどうするの、と脳内ツッコミをいれてしまいました。
 もちろん古本で買ったのかも知れないし、誰かからのもらいものかも知れません。
 ただハウツーものの強さ、というのを見せつけられた気にはなりました。
 この文章は、まえがきにも書いたように、ハウツー本をめざしています。
 読んだひとが、それぞれの詩のジャンルを「楽しめる」ようになったり「うまく」なっ
たりするようなことを書いていきたいのです。
 ただ、そんなことはいっても、これは精神世界の本ではありません。
 「歌がうまくなるには、在原業平を守護霊に持つことです」というようなことはいくら
なんでも書きません。
 話は飛びますが、キングズレイ・エイミスの『地獄の新地図』という本に紹介されてい
る海外SF小説に、蟻が巨大化して人を襲うというものが紹介してあります。
 どうして蟻が巨大化したかというと、蟻に馬の霊が入ったので、馬の大きさになったと
いう設定でした。
 それSFかよ!
 えーと。
 「楽しむ」にしても「うまく」なるにしても、私はあるところまでは何をするにもそん
なに変わらないのではないかと思っています。
 たとえば仕事においても「人に好かれる」ということは、いろんな場所で大変大事なこ
とです。
 小田嶋隆さんの本に『もっと地雷を踏む勇気 わが炎上の日々』という大変おもしろい
本があります。ウエブサイトで書かれたコラムをまとめたものですが、私は本を買って通
読しました。
 この本の中に、小田嶋さんが、東京の目黒の街で出会ったちょっとした事件が書かれて
います。
 目黒の住宅街のお店で待ち合わせをしている。時間がもうない。誰かにきく以外にない。
道を通っている女の人に尋ねる。
 声をかけた瞬間、逃げ出された!
 次におばさんに声をかけたら、「急ぐので・・・」と言われてやっぱり去られた!
 やっと店について、待ち合わせの相手にそれをいうと、何はともあれ当面の危険を回避
するのは当然ですよ、という答えがかえってきたというもの。
 しかし私はこれを読んで少し思いました。
 小田嶋さんはどれくらい今まで歩いていて逆に人に道をきかれたことがあるのだろうか、
と。
 うーん、また長くなりました。
 休憩しましょう。
 さて。
 短歌にしても詩にしても、私は、「500年も1000年も星の数のようなひとたちがいじくり
まわして来て、結局たいしたものは出来ていない」くらいの気持ちで関わったほうがいいと
思っています。
 えらそうにしろといっているのではありません。
 ただ、これから先の詩や歌のほうが遥かに歴史としては長くなるとそう考えたほうがいい
のではないかと思っているのです。
 なにか、過去のものを読んだり探したりしなくていいといってるのでもないですよ。
 こまかく見ていくと、詩歌の歴史というのはそれなりに残酷なものだと私は思います。
 はやりすたりもすごくありますし、同時代の目ではどうしても追い切れないものも少なく
ありません。
 自分が生きているのはいまなのだから、いまというものがどうしてもものの見方の中心に
なってしまいます。
 そこは、もう少し、こころや、からだを、たまった「現在」という乳酸を、もみほぐした
ほうがいいんじゃないでしょうか。
 「身銭を切れ、足を使え」というのは、教育や仕事のことなどでよく使われる言葉です。
 料亭などで使われる、料理に添えるきれいなもみじの葉や、花などがありますね。
 九州のどこかの村で、ああいうものを専門に、村をあげて生産流通させてうまくいってる
ところがあると、いつかの岩波の「世界」に記事が載っていました。
 その道筋を作った、役場か農協関係の男の方は、何をどう作れば自分の村がうまくいくか
を探るためにとびまわり、十年以上も給料を一銭も家に入れなかったそうです。
 私の家は・・・間違いなく・・・追い出されますね、それは。
 でも「身銭を切る」−本を買って読む、イベントにゆく、会費を払うようなグループに所
属する、自分で本を作ってみる、雑誌を作ってみる、エトセトラエトセトラ−はとても大事
なことです。
 「足を使う」−おもしろそうな人にあってみる、失礼や迷惑でない形で、話をきこうとす
る、読んでもらおうとする、同好の士を集める、いろいろさまざま−もとてもいいことです。
 ほとんど詩の話はなんにもしていませんが、こういうことも書いておきます。



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◇第三回を書きました。



◇テンションが下がってきてる気もしますし、実際に連句の本を出したり
 やっておられる方には反感を買うかも知れませんが、こう書く以外に書けませんでした。



連句関連のネットのページはたくさんあるので、そちらをご参照のほどを。
 あと詩のほうで行われる「連詩」というものはここではあまり意識していません。
 うーん。まあそういうことです。



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◇「連句」についてお話します


 この小見出しのもとでは「連句」について説明したいと思います。
 ここでも「連句」について、私なりの定義をしておきましょう。
 こうです。
 「五七五と七七の句を、みんなでつけあっていきながら、ある程度の長さのものを
作る、いま行われているもの以上に、ひょっとしたら何かあるんじゃないかと思う、
詩の形式」というのがそれです。
 「連句」や「連歌」には基本の三十六をつなげる「歌仙」というかたちがあり、ま
たさまざまな「定座」「式目」といったルールもあります。さらに、三十六という数
も含めて。もっと自由な形のものもいろいろ作られています。しかしそのことについ
て説明すると、なぜかとても退屈な話になります。
 連句をやってる人は、なぜやっているのかというと、それは「連句が好きだから」
です。これは実際、その連句をやっている人たちの中に入ってみるとよくわかります。
 そして、楽しそうにやっています。
 ただ私としては、「これ以上にひょっとしたら何かあるのではないか」と思えてな
らないのです。
 これが、短歌や俳句と連句を並べて説明しようとする理由です。
 ひとつの小説を複数の人で、一人の筆名で書く、というのはそれほど珍しくありま
せん。岡島二人さんがそうでしたね。属十三さんという人もいました。脚本家の木皿
泉さんも、夫婦で一人のお名前ですね。
 「連句」には独りでつけてゆく「独吟」という方法もありますが、基本は何人もの
人が「捌き手」と呼ばれるひとを取りまとめ役としながら、共にひとつのものを巻い
てゆく形式です。
 こう書いただけで、はあ、なんか優雅そうなもんだねえ、とあなたが思ったとした
ら、それはあなたが、「個人」なり「人格」なりで生活や趣味の端々まで、応対して
いることに多少疲れているからかも知れません。
 日本は「名前の国」です。
 「名前がない」と人間ではありません。
 一時的に「名前がない」ことの自由を楽しむ人々はいます。
 インターネットの一部の世界です。
 「名前」をなくさなければ単純に、本当のことや自分の気持ちを表に出せない、あ
るいはとても出しにくい世界というのをみんなで作ってきました。
 どうしてそうなったか。
 そういう世界を作るのは、楽しかったからではないでしょうか。
 ここは意見が別れるところかも知れません。
 またちょっとお茶でも入れましょうか。
 加賀棒茶というお茶、とてもおいしいですよ。
 ではもう少し。
 『日本漢詩全集』という、とても分厚い全集があります。
 私の高校の図書館にもあったぐらいですから、そう珍しくはないのかも。
 最後の巻には、現代の漢詩が載せられていて、その中に広島の原爆投下のことを書
いた漢詩が載っています。五言七言という形式を破った、長いものではないですが、
破る必要が確かに感じられる、すぐれたものだったと思います。
 しかしそういうものはなかなか「流通」するものではありません。
 「流通」するためにはまた別の「何かの力」がいるのでしょう。
 「連句」というものには、どこかにまだその「何かの力」が隠れているのではない
でしょうか。
 別所真紀子さんの筆による『古松新濤 昭和の俳諧師 清水瓢座』には、和漢連句
というこの本を読むまで私が見たこともない様式の俳諧も載っています。
 しかし私には現在のテレビでのトーク番組と言われるものに、当時の俳諧の言葉の
息遣いがひょっとしたらあるのではないか、と考えたりするのですが・・・。



            正岡