49歳からはじめる短歌・俳句・川柳・連句・現代詩入門(




◇第二回目も書きました。
 「見出し」をつけるといいんですが、そのまま、上の方にコピペします。




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益田ミリに学ぼう


 益田ミリさんというマンガやエッセイ、イラストレーターでいろいろな本を
出している方がいます。「すーちゃんシリーズ」というのがまもなく映画化さ
れるそうです。
 この方が最初に本を出そうとしたときの話が大変おもしろいので少し紹介し
ます。
 彼女は最初イラストの本を出して欲しかった。
 しかしイラストだけでは、なかなか本は出してもらえない。
 そこで彼女が考えたのが、自分のイラストに川柳をつけることでした。
 残念ながら、一度買ったその本は、私の手元には今はなく、川柳を引用する
ことは出来ません。
 ただ彼女はいわゆる「川柳作家」の先生に教えを受けたりとかそういうこと
ではないようです。
 そして出版社への持ち込みにより、彼女の本は出版され、今は多くの著書が
出ています。
 有名な小説家や、エッセイストのように自分も「本」を出してもらいたいも
のだ、と思っている人は少なからずいます。ただ実際に「本」なり「原稿」なりを
作り上げて、出版社にまでいく、という人はその中の少数ですね。
 そして益田さんにとって、スタートしたそのときに書いた「川柳」というの
は、一種の「道具」、もうちょっと気の利いた言葉で言えば、パソコンのソフトで
よく言う「ツール」だったんだろうなと思います。
 「短歌」も「俳句」も「川柳」もそれ自体はひとつの「道具」です。
 ただ、私のようにその「道具」の「短歌」にほれこんで、「さわりもしないのに
紙が切れるハサミ」や「見ただけでなんだか涙が出てくるまな板」みたいなものを
必死になって作ろうとする人がいます。
 なかなか出来ませんけど。
 またそんなたいそうなものでなくてよいから、自分の思いのこもった「くつべら」や
子供の誕生日のために焼くおいしい「クッキー」、悲しいから、さみしいから、つい
書いてしまうツイッターのように作る人もいます。
 そういうわけで、「まな板」も「はさみ」も、今も様々なものが作られ、自分や誰かを
楽しませたりときにはうっとうしがらせたりしながら、そしていたんだものは捨てられた
り、使われなくなったりするのです。
 今川柳ではやすみりえさんという人が一番有名だと思います。
 なんといってもテレビに出ているからです。
 私は別にテレビに出たことはないですが、テレビというのは大変だろうと思います。
 テレビでは「明るくふるまわないと暗く見える」という法則があります。
 またある程度テレビで顔を知られるようになって、何かの事情や理由で出なくなると、
あの人は死んだのではないかとすぐに言われます。
 少し暗い話になりますが、それはたぶんそこに私達の「死」があるからです。
 益田ミリさんに学ぶのは、「やりたいことをなしとげることの大切さ」「アイデア
や道具を使うことの大事さ」です。
 ではそろそろその「道具」の話をしてゆきましょう。



◇「川柳」を楽しもう


 いま、川柳には大きな二つの流れがあると思います。
 ひとつは、サラリーマン川柳、**川柳、といった形での、投稿川柳の世界。
 もうひとつは、いまの言葉、いまの生活、のままで、どこかで遠い川柳の生まれた
場所と、見えないへその緒のようなものでつながろうとする「川柳」の世界です。
 ここでは投稿川柳のことは、いったん置いておきます。
 楽しむのはそう難しいことではないように思えるからです。
 楽しみ方がわかりにくいのは、後者の「川柳」の世界です。
 しかし私には、この楽しみ方がわかりにくい「川柳」のほうが、より深い楽しみ
方を用意しているように思えます。
 あなたは生まれた場所をおぼえていますか?
 いってみたいと思いませんか?
 「生まれた時間」「生まれた場所」というものへ。
 私は「ふるさと」というものがありません。
 ものごころついたときには、小さな、地味な、どこにでもある町に家族といました。
 お墓参りひとつしたことがありません。
 そういう家ではなかったのです。
 「川柳」の世界に触れるというのは、「ほんとうの川柳」というのを探す旅に
出ることです。
 赤ちゃんのようにまっさらな、いかめしい顔のひとでもついあやしたくなるような、
「無垢」の言葉に出会いたいと思うことです。
 いまの、あなたのままで。
 「川柳」というのは、まえがきでも書いたように、江戸期の、前句付けという興行
からはじまっています。
 当時は活字もなければオフセットも、もちろんエクセルもありませんから、
 (エクセルだけでもないほうが良かったというあなた、私の友人です!)
興行の結果は、一枚の紙に刷られるか、看板としてかかげられるものだったようです。
 その興行の選者として、選が非常に人気があったのが、柄井川柳という人でした。
 そしてその選ばれた句をまとめた人が別にいて、まとめたものから、こうした主に五
七五の句の「すがたかたち」が「川柳」と呼ばれることになりました。
 これらはいまでは古川柳と呼ばれます。
 「俳句とどう違うのか」というあなた。まだあわてないでください。
 でも大事な疑問なのです。とっても大事な疑問です。



◇友達は大事だ



 古典の「徒然草」を全部読んだ、という人はあまりいないと思います。私も読んでないです。
 でもその中にいい友達というのはどういうものか、ということについて述べた場所があります。
 あれやこれや上げた中に「ものくるる友」がいい、と書いてあったりします。
 古典の文書から何かを直接いまにつなげて説教じみたことを言うのは私は好きではありません。
 でもものをくれる友達というのはいい友達だ、というのは、納得できます。
 うれしいじゃないですか、なんかもらったら。
 今度は「短歌」について説明します。
 短歌にも新聞歌壇、と言われる、投稿短歌の世界があります。
 しかしこれは、川柳ほどあっさり「投稿」の世界で終わっていない部分があります。
 そういう言葉はないのですが、私はここで「本格短歌」という言葉を作ります。
 「投稿短歌」と「本格短歌」の間はどうなっているのでしょう。
 「短歌」というのは、「なんで短歌なんかやってるの?」という質問や、無言のジト目のよう
なものにさらされることが多いです。
 難しいことではないです。
 たいてい「短歌」が好きだからやっているのです。
 自転車が好きな人や、マラソンが好きな人は結構理解されるのに、なぜ短歌だとそうなってし
まうのでしょう。
 大新聞の投稿歌壇というのにはとても熱心な読者が時々います。
 呉智英さんがそうです。
 佐高信さんもそうです。
 佐高さんには『人生のうた』という本があり、新聞歌壇で見た「斎藤たまい」という人の
歌に魅せられて、それからのことを書き綴った長い140ページほどの文章が収められています。
 とても良い文章です。
 私は愛書家ではないので、本は手放すことが多いのですが、この本はいま二階の書棚から発見
することができました。昔の私よ、ありがとう。
 ここで「短歌」とは何かという答えを私は一応用意しないといけません。
 難しいですねえ・・・。
 「五七五七七の三十一音で作られる一定の形式を持った詩の形」というのでは、まったく説明
にならない気がするからです。
 こうしましょう。
 「五七五七七の三十一音で作られる一定の形式を持った、ひととひとを友達にする詩の形」。
 さて話は飛びますが、仮面ライダーは、敵を最後に倒すとき、必ず「ライダーキック!」と自分
で言って、相手を蹴り飛ばします。マジンガーZに載っていた兜甲児は、ビームを出す時、「光子力
ビーム!」と叫びます。テレビ番組だから、ここにエコーがかかります。どうして言うのか? 
叫ぶのか? 自分で言わないと誰もいってくれないからです。また言わないとそれがなんだか
わからないからです。さみしいですね・・・ヒーローは・・・。
 ここで、短歌一首をその「技や光線そのもの」作者名を「技や光線の名前」と考えると、短歌や
俳句のことがもう少し説明できそうです。
 原理としては、短歌に作者はいりません。
 しかしそれはあくまで原理です。
 「歌人A」「歌人B」でもいいといえばいいのです。
 しかしそれもまたおかしなものになる。
 ここで、正岡子規の名を出さないといけません。
 いやなんだけどなあ、短歌入門書みたいで。あ、入門書書いてるのか、いま。
 さて、学校で習った国語の教科書を思い出してください。
 短歌では、古典の、平安時代の和歌から、いきなり正岡子規斎藤茂吉の短歌に飛んでいるはずです。
 その間に短歌形式がなくなっていたかというとそうではありません。
 実はそのころのものは本当にもうどれがどれだかさっぱりわからないぐらい似通ったものしか
まったく残っていないのです。
 どうして似通うのかというと、みな「歌人A」「歌人B」で書いてるからです。
 (いいものもあるんですがここでは話を先に進めます)
 ここは、どうしても歴史の話になってしまいます。
 日本という国が、明治という時代の橋を渡ったとき、短歌も同時にその橋を渡りました。
 日本は、「名前」の国になりました。
 ある「社会」が成り立つ時、大事なのは、どこからどこまでが「人間」なのかを、みんなの
「感じ方」としてともに持つことです。
 それがなければ「殺人」とは何を指すのか、「父母兄弟」とは何か、すら定まりません。
 そこのところを子規とともに乗り越えた短歌形式は、「詩の無名性」を放棄せざるを得ませんでした。
 天皇制、肥大する軍事的必要と経済的必要、国民国家の形成、その中での幸福と充実、悲哀と圧迫、
それらすべてを「名前を持つ詩の形式」として一身に背負ったもの、それが明治以降の短歌だった
と私はここで言いたいのです。
 私達にはもう「幼名」はありません。生まれたときから私は「正岡豊」です。
 「牛若丸」とかそういうものはもうないんですね。
 もちろん古典芸などの「門」の中には、そういうものもあるんですが。
 新聞歌壇に熱心な読者がいるのは(呉智英さんは読んでぼろぼろ泣くこともあると何かに書いて
おられました)名前と、国家によって設定された「人生」の凝縮感を、一度にそこから受け取るか
らではないでしょうか。
 では「本格短歌」とはなんでしょうか。
 「名前のある」私たちは別に目からビームは出せません。
 あ、あなたは出ますか? それで魚焼いたりする? それはそれは。
 それでも歌の詠み手たちにあるのは、眼前にある「短歌形式」とまぎれもない自分の「生」を
渾然一体なかたちで、ひとつの音数律の中ではばたかせてみたいという願望です。
 そのためには自分の「職」も「妻」も「子供」も、「戦争」も「原発」も「津波」も「革命」も、
すべては「歌」の「音数律」のいけにえとする覚悟がいります。
 「本格短歌」とは、程度の差はあれ、その覚悟をともにする「仲間」で出来ているジャンルです。
 わたしが、投稿短歌は投稿短歌で、本格短歌は本格短歌で、「ひととひとを友達にする詩型」で
あるとするのはそういうことです。
 少し長くなりました。かっぱえびせんで、お茶にしましょう。











「以下第一回目です」


◇というのを考えました。


◇こんな本が出るわけはないですが、書いてみたら
 「おもしろかった」のでついつい書いてしまいました。
 いまわかりました、なぜあんなに「入門書」が短歌・俳句の本屋の棚にあるのか。
 書いてて「おもしろい」からですね。いやあ、まいった。


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「この本のまえがき」



 この本を手に取られたあなた。
 タイトルを見て「なんだこれは?」と思いましたか?
 私も本屋でこんな題の本を見つけたら、「何? こいつ、バカ?」と思うかも知れません。
 でも一冊ぐらいあってもいいかも知れません。
 「詩」も「詩人」も日常会話の中で、毎日のように使う人は、ほとんどいないと思います。
 「大根」「定期券」「テレビ見た?」「コーヒー買ってきて。おれ赤いの。」
 というのが私の思いつく、毎日の、普通の言葉です。
 詩を書いていても、詩人と名のるのが恥ずかしいのは、日本においては「詩人」とは
 「有名な詩人」のことだからだと私は思います。
 世間は、「仕事」というものに、一定の価値観をおくことにより、まわっています。
 「詩を書いている」というと、普通の人は、「(はあ、それでこの人は食べているのだろうか)」
 「(私はこの人の名前をまったく聞いたことがないが、谷川俊太郎と同じくらい有名なのかな)」
 と考えたりします。
 次にその人の「詩」を読むとします。
 「わかりやすい詩」だったとします。
 「(なんだ、こんな簡単なのならおれでも書けるぞ。たいしたことないな)」
 と思ったりします。
 「難解な、知らない言葉がいっぱい出てくる詩」だったとします。
 「(なんだこいつ、こんなの書いて、詩人気取りかよ。やれやれ。)」
 と思ったりします。
 「短歌」や「俳句」はどうでしょうか。
 「短歌」や「俳句」は自動販売機では売っていません。
 いや何もあなたをバカにしてるんじゃないんですよ。
 ただ私たちはいま、ほとんど、「もの」というのはコンビニで売ってる「もの」として生きている
と思います。
 基本的に「短歌」に興味がない人、基本的に「俳句」に興味がない人、にとり、まずそれは、自動
販売機で売ってる缶コーヒーの種類のようなものとして、受け取られるのだと思います。
 「赤い缶のやつ」「青い缶のやつ」といえば、缶コーヒーはある程度、他人に好みを説明できます。
 「BOSS」とか「FIRE」でもいいです。
 でも「短歌」にも「俳句」にも「色」はありません。
 タバコのように、ニコチンのミリグラムで細かくわけられてもいません。
 缶コーヒーもタバコも、アイスクリームもドーナツも、興味が無い、食べない人には、見分けがつ
かないし、その必要もありません。
 だから、「短歌」も「俳句」も同じものになります。
 「短歌」って五七五だっけ? 季語いるの? とか言われたりします。





 ここで、コンビニとか自動販売機とかを持ちだしたのは、それなりに理由があります。
 あなたは子供の頃、何で遊んでいましたか。
 テレビゲーム機がなかった時代。
 私は「ベッタン」という四角いメンコでよく遊びました。
 ドッジボールもしましたが、「卓球」という名前で、地面に大きくマスを「田」の字
に書いて、ワンバウンドで相手に返してゆく、という球技もよくやりました。
 大人たちはそのころ、なんで遊んでいたのでしょう。
 私の生まれる前にさかのぼってみましょう。
 戦前? いえもっと前。明治? いやいやもっともっと。
 教科書では江戸といわれるそのあたり。
 身分、というのが、普通にあったその時代。
 盛んになった大人たちの遊びがあります。
 前句付、川柳とのちに呼ばれるものが、そのころ大変盛んに行われていました。
 一人の主催者が、「おそろしい事おそろしい事」という短歌の下の句みたいなものを、
「題」のようなものとして出し、そこに気の利いた「五七五」をつける、今でいうコンテスト
を開催するのです。
 週刊誌もメールもない時代、それらは街道や当時のほこりっぽかったであろう街並みの、
「茶屋」や「お店」に何がしかのお金といっしょに自分の書いた「句」を出し、
神社のようなところで、結果発表が行われ、一等や上位にはにはお米や金銭などの賞品が
送られました。
 そしてそれは最盛期には、いまでいう「週刊単位」で行われた、という説もあります。





 色男金と力はなかりけり





 泥棒をとらえて見れば我が子なり




 などは、このころ生まれたものです。
 これらが「川柳」と呼ばれるのはもう少し先の話です。
 マンガもなければテレビもない、映画もなければ、ディズニーランドも影も形もない時代、
「ことば」を使ったこうした「ゲーム」は、大変盛況でした。
 また、いまの私達から見て、このころの人たちは、みな一様に「日本史オタク」だったと
私は思います。
 「教養」も「常識」も、ある程度、みなが知っているという約束の範囲の「日本史」のなか
からそれはやってくるものでした。
 「文学」(といまわたしたちがいうところ)のものは似たようなものはあってもその言葉は
ありません。
 「美」はあっても「美術館」という考え方もありません。
 しかしそれでも「裕福」と「貧乏」はありました。
 「連句連歌」というのは微妙にそこと関わってきます。
 でもまえがきにしては少し長いですね。いったんここで休憩しましょう。






 この本は、私から見て、日本で受け止めることの出来る、「詩」のいくつかの種類について、
「楽しみ方」や「うまくなる方法」についてのべていこうとする本です。
 野球選手だった長嶋茂雄さんに『勝つためのゲートボール』という本があるのを御存知ですか?
 どういう道筋で出されたのかよくわからないですが、そういう本があります。
 「短歌」「俳句」「現代詩」といっても「野球」「サッカー」「水球」みたいなものです。
 大きな意味での「スポーツ」というのが「詩」だと考えたらいいと思います。
 「現代詩」というのは、このなかでも歴史が浅い割には、何か「高尚」な雰囲気があります
が、やってることはそんなに変わらないし、実はバタ臭いものです。
 「海外詩」は日本ではあまり流行らないスポーツ、「クリケット」や「カバディ」みたいな
ものでしょうか。
 そしてここもまた大事なのですが、何でも、一定の場所で長く続けていると、地域や、集団の
中での「行事」や「広報」とやってる自分が関わることになることが少なくないのです。
 何でも、ですよ。何でも。
 「自転車」でも「園芸」でも。「少年野球」でも「収納」でも。
 若いうちは、転居も多いし(日本人は一年で500万人が引越しをする国だという説があります。
ほんとだったら、22年で日本人は一人残らず引越ししていることになります。なんて国だ。)
そういうことが身にしみるのは、ある程度年をとってからです。
 生きていればいろんなことがあります。
 楽しかったり苦しかったりします。
 でも「楽しい時間」が多いほうが、いいんじゃないかと私は思います。
 そういうことです。
 ではそろそろはじめていきましょう。
 目次を見て、好きなところから読んでください。

紀伊國屋書店出版部「scripta」の感想

<『scripta』(スクリプタ) 紀伊國屋書店出版部 No.1.2.3.9以外の
 No.1〜No.25号>


ツイッターでも書いたが、京都のアバンティ六階の書店で、
 この冊子の最新号を、袋に入れてもらった。
 出版社の広報誌というのが好きだから。
 「波」や「本の窓」みたいなものかと思ってたら
 かなり違う。
 平出隆の文章はフォントを落として段組の天地も落として
 あるし、木皿泉のエッセイは、この方たちのものを印刷で読むのは初見だけど、
 「ネタ消費」(ブログなんかを書くためのネタにけっこう
 お金を使うこと)について書き始めて、
 さらり、と現代を生きるもののミョウガみたいなささくれについて、
 やわらかく語るこれは三段組。
 平出の、ハイカルチャーな感じも、木皿のホームタウンだけれど、
 グランマ&グランパ的な微妙な「ひと」へのクールな視線も、
 とてもよい。
 森まゆみの文章は、いつもながらの歩行と探索が静かな静かな興奮と
 ともに語られる、「お隣のイスラーム」という好文章。
 三段組で天地に帯の地模様。
 このさっぱりとした雰囲気ながら、気持ちのよい編集の技は、
 ただものではありえない。
 「sumuus」とか、リトルプレスの冊子とくらべても
 てらいのなさがはんぱではない。
 (でも三月書房で売ってる「sumus」はほとんど買いました。)
 バックナンバーが読みたくなってサイトにあたったけど、
 あまりよくわからない。
 冊子の奥付のところに電話をしてみると、
 もらった本屋になかったら、バックナンバーを無料で
 送ってくれるという。
 さすがに驚いたが、とても良い雑誌だと思ったので、編集の人に
 そう伝えてください、と言って切ったのが昨日の2時ごろか。
 朝の八時半には、もう届いた。
 二十冊ほどあった。
 封を開けて、執筆者の確認をはじめた。
 朝ごはんを食べたり、少し雑事をしたりしながら、
 お昼ごろまで
 (現在膝を痛めて休職中なので)
 読みふける。



森達也が、小説ともドキュメントともつかぬものを書いている。
 内堀弘が「予感の本棚ー戦前の紀伊國屋書店」という題で、古書や古書店
 古い時代の出版をめぐるエピソードを書いている。
 都築響一も、自分の「近傍」から、好書を紹介している。
 それぞれの文章については、20冊もながめたあとでは、
 簡単に書けない。
 おもしろい。ああ、黒木書店。ああ、アサヒグラフ。カブで青山ブックセンターかよ!
 とか、声に出る。
 しかし、嬉しいめまいのようなものはそこからくるのではない。
 2012年において、こんな「編集」をこんな広報誌という枠組みの中で、
 実際やっている人がいる、というところから、それは来る。
 松岡正剛の「千夜千冊」は確かにおもしろいし、文化価値もあるといえば
 あるだろう。
 しかしあのように高価な装幀本として出すのはどうなのだろうと、
 私は思ってしまう。
 別にこの冊子はものすごく珍しい人を集めているというわけでもない。
 私が未知の人も多いけれども、それよりも、たぶん編集の人の、
 この人に原稿を依頼して、こういう冊子にしてみたい、という、
 選択の意識、またそのレイアウト、
 (カバーでも表紙でもなく、本文のページを一番大事にする、か
 一番考える、か、と言ったのは、菊地信義である)
 も含めて、が、とても素直に、見えてくる、その感覚。
 私は、
 とてもきれいな天からくだる一本の親指ほどの太さの水の柱のように感じた。



◇個々の文章については、長い連載はそのうち本になるだろう。
 日を変えて、この日記に書くこともあるかも知れない。
 枡野浩一の『ドラえもん短歌』についての、木皿泉の一文は、
 「みんなドラえもんの道具なんかなくていいって言ってますね」
 というのをすっと導き出すところに、あっと思った。
 昔古本屋で、剣道の「型」や「修練」を短歌形式で全部述べた
 本を見たことがあった。
 塚本邦雄の本をそれなりに読んで来た人は、かなづかいの
 「い」と「ゐ」の使い分け等を覚えさすために作られた、
 なんとも奇妙な「歌」をどこかで見たことがあるはずだ。
 短歌の作り手の私は、極限までの短歌形式の可能性の発露、などを
 つい考えてしまうのだけど、短歌形式そのものは、ただの
 57577の言葉の連なりとして、普遍化されてゆき、
 そこでまた、すくい上げられることが出来るものが、すくい上げられてゆく、
 ということなのかも知れない。
 黄色い表紙の「scripta」最新号は、
 大型書店等、置いてあるところには、まだあるでしょう。
 私みたいに余計なことは考えなくても、
 珈琲飲む時の目の楽しみには、十分なだけの何かはあると思います。



            正岡@(もう五時だぜベイベー)
 

『もしニーチェが短歌を詠んだら』/中島祐介  について

もしニーチェが短歌を詠んだら

もしニーチェが短歌を詠んだら


amazonで購入した。便利なのはわかっているが、ネットで本を買うのは
 好きではない。買いに行く、買って喫茶店や帰りの電車の中で開く、等が
 好きだから。この本も段ボールから開いて、思わずツイッター
 装幀の件で少しネガティブなことを書いてしまった。
 日本語では、相手を非難する言葉ほど、短い、という。
 「バカ」「アホ」「死ね」など。
 だから子供は先にそういった言葉を、かなり覚えてしまう、という説もある。
 気をつけねば、と思う。




角川学芸出版だから、選書っぽいデザインの「角川学芸ブックス」で出てるのか
 と思ったら、そうではなかった。印刷製本も、前者は文昌堂でこの本は
 シナノ。手軽な感じがいいと思う。




◇著者の中島さんとは、十年前くらいに会ったきりで、今あっても気付けないかも。
 第一歌集は未読で、昨日ネットで書影だけを見た。




◇いわゆる「もしドラ」の、アレンジ本だというのは、ついこないだまで気づか
 なかった。




◇読み始めは、こういう「短歌での『超訳』みたいなもの」
 は実際にある程度現在の短歌を読んで来ている人とそうでない人ではかなり違うから、
 読んで来ている中島さんが書くのはいいことだなあ、と思った。
 途中からは、口語にすれば句またがりにしなくてもいいところを、
 かなりテクニカルに処理して31音にまとめているところが目立って、
 いいことばっかりでもないかもなあ、と少し苦笑した。
 私はニーチェを熟読したことはないのだが、
 「理に落ちる」という形で一首を構成していこうとすると、
 こんなに枡野浩一の歌と似てしまうものなのかと驚いた。
 もうひとつは、初句五音の内的な強制感の弱さの「露出」である。
 『月林船団ーアララギ新風七人の100首』と題された合同歌集を読んだことがある。
 そのとき、初句が六音以上になっている歌も散見されるにもかかわらず、
 七人の作者のすべてから初句五音の内的な強制感がとても強力に感じられるのに
 かなり私は驚いた。
 今でもある程度の年齢か、歌作期間が長期に渡る歌人は、「歌風」というのに
 かなり敏感だと私は思っている。『月林船団』のそれはまぎれもなく、「歌風」だろう。
 それはそれとして、初句五音の内的な強制感の減衰は、それをうまく全体の構成のなかで
 等量に振り分けていく(あるいは回収する)ようにしないと、歌自体の緊張感が衰える。
 短歌作品として読まれるのは不本意かも知れないが、
 思ったことだから、書き付けておく。
 



◇私は、これは「ビジネス書」として作られていると思う。
 ビジネス書の定義のようなものを、どこかで吉本隆明が書いていた。
 「ビジネスマンが読むのがビジネス書で、私の(吉本の)本は50%以上が
  ビジネスマンが読んでいるから、これ(吉本の本)はビジネス書だ」
 といった内容だったと思う。今少しさがしたが、書いてある本が見つけられなかった。
 竹村健一が訳した(となっている。本当かどうかなど私に知る方法はない)
 ジョン・ネイスビッツの『メガトレンド』という本がある。
 ひどい文章だった。
 おれはこんな文章を読むんだったら、絶対ビジネスマンになんかならない、と
 ある友人にいったら、
 心配しなくてもあなたは死んでもビジネスマンになんかなれないよ、と
 言われた。
 事実なってないから、それは当たっている。
 それはそれとして、それでも中島さんのこの本の「はじめに」の文や、
 邦訳・図書リストの文章の雰囲気には、含羞やデリカシーがあって好ましい。
 ただの気遣いには思えない。
 歌人の紹介リストで、茂吉と白秋の間に夕暮を置くのは、
 三枝昂之の『昭和短歌の精神史』から来ているのかな、
 とも思うが、そうであってもなくても、いいと思う。
 女性の歌人の名前の少なさは、この本の読者層を思ってか、
 短歌に基本的にかかるバイアスのせいなのかは、
 (岩波短歌辞典の編集委員の男女比率は、バイアスだと私は思う)
 よくわからない。



◇短歌=翻訳を三首ほど引く。


*炎火なる沿道に逃げ水があり 神とはひとつの憶測である
(単純に、歌としていいと思う)


*才能は一つ少ないときよりも一つ多いほうが危険だ
(いい感じの箴言性が出ている。ジャンプに連載中の西尾維新原作の
マンガに出てきてもおかしくないと思う)


*指先を通じてからだに響いてく はじめて鳴ったFのコードが
(原文がわからないので、ニーチェの書にFコードというのが
出てくるのかわからない。上の句には、中島さんの「からだ」が
出ているように感じるが、思いすごしかもしれない)


◇さて、この本、すでに重版しているのかと思ったら、まだで、「重版祈念」の
下記のイベントがある。


★短歌をカネにかえたくて★
―『もしニーチェが短歌を詠んだら』重版祈念トークライブ―

2012年10月13日(土) ロフトプラスワン



http://www.loft-prj.co.jp/lofta/schedule/perD.cgi?form=2&year=2012&mon=10&day=13



 商品だから、(というのを私は「定価」がついているものとしてここでは使う。
非売品もあるし頌価をつけてあるものもあるが、単純にそこで私はわけて使う。
というのは強制ではなく、私はそういう風に使うよ、という説明です。)
本は売れないより売れたほうがいいと思う。
 いろんな話が出ればいい。私はいけないけれども。
 この本を買ったのは、佐々木さんとはまったく、中島さんともほとんど私は親しくないのだが、
このイベントのサムヘルプが出来ればいいかな、と思ったからである。
 よい会になればいいなと思っています。



             正岡
 

現代詩文庫『倉田比羽子詩集』について

倉田比羽子詩集 (現代詩文庫)

倉田比羽子詩集 (現代詩文庫)

◇倉田の詩集は、もう十年以上前に『夏の地名』を読んだことがあった。
 ほかの本は処分しても、なかなか処分しがたい一冊で今も書棚の奥にある。
 昨日書店でこの現代詩文庫を入手して、今、解説や詩人論や、散文、それから、
 『世界の優しい無関心』の抄録の部分をさっき読み終えた。
 あわてて感想を書くこともない。
 それはわかっているのだが。




◇解説の詩人論は、倉田への瀬尾育生のインタビューになっていて、これは
 私のようなものにはありがたい。さっき念の為に家にあるここ十年程の
 十数冊の『現代詩手帖』のバックナンバーや他の詩誌の目次を見たが、
 詩作品は全く発見できず、詩手帖の投稿詩欄の選者として倉田が講評を書いた号があるばかりだ。
 ところで、今年の短歌研究の評論賞の選考座談会で、篠弘が、座談会の発言を
 評論に引用することへの疑義もしくは否定を表明している。
 確かにそれは私も賛成する。この一文は別に評論という意識はない。
 それを言い訳とするつもりはさらさらないのだが、
 私は瀬尾の次のような発言には驚かされたので、
 まず引用せずにはいられない。




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瀬尾/『世界の優しい無関心』以後の詩が、若い詩人たちに与えた影響は
大きかったと思う。形式の上でも倉田さんが獲得した新しい定型のような
ものがあって、それが他の書き手たちにも開放感を与えた。こんな行の
長さで、こんな風に書けるんだ、という発見。若い人たちは今ほとんど
あの形で書いている。あの一行の長さの中に論理性もあり抒情性もある。
散文と詩のちょうど中間の文体がありうる、ということを発見したんだ
と思う。




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 現代詩の中では一種の水先案内人の位置に詩人としても詩論の担い手としても
 瀬尾はいるように私からは見える。どれくらいの重量で、瀬尾がこの発言を
 しているかは、倉田への距離感のある親愛が流れているこのインタビューでは
 はかりがたい。
 しかし正直なところ、「そんなんはよゆーてくれよ!」と脳内関西弁で反応
 せずにはいられない。しかしここにこだわることは本意ではない。
 作品論の執筆は二人、北川透佐藤雄一。佐藤の論の書き出しである。




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 不思議です。
 彼女の詩を。文字通り枕頭の書とし、おそらくは少なくはない人に強くすす
めてきたはずですが、当の彼女の詩について書こうとすると、まったくそのパ
ッセージを思い出すことができません。

            「うつくしい忘却」 佐藤雄一




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 私は素直にこれを読む。
 なんだ・・・。
 そんなにみんな読んでいたのか・・・。
 私は穂村弘に何か詩について聞かれたから「倉田比羽子いいよ。読んだら?」
 とか答えたことがあったが、(7〜8年前ごろかな)
 そんなに読まれているのなら、私が何もいうことはないではないか・・・。
 もののついでに書くが、私が読んでみたいと常に思っていて、
 実際の本を見たことがない詩集が二冊ある。
 松浦寿輝/朝吹良二による『記号論』と海埜今日子の第一詩集である。
 死ぬほど読みたいとかいうのではない。あればいいなと思うのである。
 もちろん今現在どこかで再販が企画されてるかは私は知らない。
 こういうのも実は別に私が言わなくても、変な言い方だが、そうなっているのだろうか。
 もうちょっと書くと、また四、五年前か歌人荻原裕幸のまた聞きになって
 しまうが、ある若い詩の書き手に「『現代詩手帖』って同人誌でしょ?」と言われた
 と聞いたことがある。うまいこと言うな、とも思ったが、それ以上に、何か倉田が
 やっているような詩の仕事、仕事というのはよくないか、詩の営為と言おう、は
 かなり孤独な世界のことなのだろうな、と思わされたのだった。
 誰でも孤独だ、という一般論は抜きにしても。
 それはそれで早とちりだったということなのか。




◇なかなか倉田の詩に入らないが、もうひとつ。
 菅谷規矩雄との、静かな交流の日々を綴った印象深い散文が、本書には
 収録されている。次の個所を読んで、私はソファーにつっぷしてしまった。



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 そういえば当時「Zodiac Series」の打ち合わせが終わって、国立から百草の
団地に一緒に帰ることもたびたびあった。その道々、菅谷さんは「僕は詩人
なんだけどね、詩の依頼はないんだよね」とポツリと口にしたことがいまはと
ても印象的に思い起こされる。

       わがアデン・アラビアー再現ではなく忘却のために 倉田比羽子


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 もちろんこんなことは、詩歌作者ならたいていの人は思うことである。
 詩人、という言葉も、それをすっと口に出来るほど、菅谷と倉田に隣接と
 信頼があったのだと私は思う。
 それでも高校時代に「あんかるわ」の「戦後政治思想論ー保田與重郎論」だとか、
 どこかの高校の記念文集のような装幀の『神聖家族ー詩篇と寓話』を繰り返し
 繰り返し読んだ身としては、やはり吐息のようなものを虚空へ放出せずには
 いられない。
 そしてようやく倉田の詩に入るが、私は少し彼女のこの詩文庫のいま読んだ詩篇に、
 「Zodiac」以前の、菅谷の、詩と、物語を形成するまでに終えられる言葉の群れのはざまに
 自分の営為を置こうとした、その、時代的な、あるいは、国家から、言語から、
 抑圧や、内的な衝迫からも、欲動からも、熱からも、冷たさからも、自由でありつつ、
 美といった瞬間にすでに美ではなく、それは、あの、「季節」のように、
 めぐってくるものでありながら、つねに遠ざかり、手には決して、
 触れられぬ、「それ」 と呼ぶしかないものへの、
 ないものへの、菅谷とはまた違った、
 「女性」の、手の、手触りを、感じるのである。




◇ここからは少し筆をはやめよう。
 単純に私のからだがもたないからである。
 詩集『夏の地名』の名作は、やはり巻末に置かれた
 「スーパー・オリンピアからはじまる」だと私は思っている。
 現代詩ー戦後詩の書法、「叙述のせき止め」「呪術的なリフレイン」
 「詩そのものへの詩作におけるメタな言及」「活字が印刷される紙面
 への実存的な倒錯」等を使用しながら、それにとらわれることなく、
 こころよいリズムと開放感の中へひとをいざなう佳品である。
 「冬でよかった。冬でよかった、と誰かが叫ぶ。
  《詩の読まれる季節がやって来る》。」
 といった個所などは特にすぐれたところだと思う。
 その「詩の読まれる季節」のために彼女が招来したのが、長い一行による、
 視覚的なリズムと、なめらかに律動する息の長い音韻文、世界闘争と
 その中での個人=自己=女性の夢想と現実、夢と記憶、変容する生、
 「学」が分解する「生命」や「機械」、同じく「学」が分解する
 「歴史」と「未来」、それらをみずからのこころの窓辺とも、
 指先からの透明な光線の発露とも見える場所に、
 しなやかにうつくしく一行一行立たせ続けたもの、
 それが詩集「世界の優しい無関心」で彼女が結実させた、各詩篇ではないか。
 この詩文庫版で読む限り、記述のピークは二つあるように私は思う。
 ひとつは詩文庫版89pから90p。
 その前の段落で、「原子爆弾が落ちた歴史を生きて」と、フェイントのように
 世界の現存在の罪と罰をひらめかせたあと、作中の「私」は向かう。
 「完結した世界」「窓のない四角い箱」「火山口の底」「氷山の水中深く」
 (まぼろしの、二階堂奥歯が引用した、小説「桜島」の一節、
  「火口の中は、ぱあっとあかるいわ」が、いま、これを書く
  私、正岡の、こころに、閃いた。)
 90pなかばではこの母国語日本語が制約する宗教=非宗教の二項対立を
 素早い身振りですり抜けつつ、繰り返し繰り返し、「自由」について
 語り続ける。このサイバネティックスホイットマンはどこにでもいて、
 どこにもいなくて、そして、そこに、いる。そこに、その、中に。
 2つ目のピークは、詩文庫版96p、暗く、場所も特定出来ない、妄想的な
 戦争小説の中のような記述の果てに、やってくるのは、
 「どんな種類の悲しみもおよばない悲しみが、悲しみから解かれてゆく」という
 記述である。ネクロマティック・アウンサンスーチー
 しかしまぎれもなく現実のアウンサンスーチーは悲しみの人だ。
 そうではない。そうではないのだ。いやまた。
 そうなのだ。そうであるのだ。
 「悲しみから解かれる」のである。何が?「悲しみから」
 光とともに。闇とともに。
 それが。
 彼女の、倉田比羽子の「詩」なのだと私は思う。


◇それでも思ったよりも9分ほど長く書いた。
 本自体も完読していなから、
 この文章もここで終わる。
 倉田比羽子さんの、御慈愛を祈る。
 


             正岡(疲労困憊)

ツイッターでの短歌連投と今日買った本とか

◇朝の9時30分前後、自作の短歌五十首をツイッターで連続して流す、というのを
 やってみた。テキストは、メールマガジンの「ちゃばしら」に寄せて、その翌年に
 名古屋で飛永京さんのピアノで組んだ朗読ライブの最後で詠んだ一連である。
 「ちゃばしら」のサイトは、軽く検索したが上がってこなかったし、
 自分のサイトではこのあたりの歌をほとんどアップしていない。
 ネットでの短歌の作者や読者もかなり入れ替わっているから
 未見の人も少なくないはず。
 ということで流して見た。
 50首流すのに18分ほど。
 少なくはない方に、いくつもの歌をフェバリットに入れていただいた。
 大変ありがたかった。見ていただいた、読んでいただいたとわかるから。
 朗読の時のようなドライブ感が出ていたのかはよくわからなかった。
 リツイートが一回もなかったのは、するほどの歌でもなかったとも言えるし、
 (して欲しかったとかではありません。念のため)
 前もって予告してそれだけの分量を流すと、「ツイート」とは違う何かに見えたのかも
 知れない。





◇膝の靭帯を、三週間ほど前に痛めた。
 このごろやっと普通に歩けるようになった。
 本屋にいって、買いたい本があったが、数店まわってもない。
 京都アバンティブックセンターは、歩ける距離にある本屋では
 品揃えの優れた棚を持っている。
 最初からそこへいけばよかったが、少しだけ痛めた足では遠かった。
 リハビリがてらいってみてやっと発見。

買った本




*『倉田比羽子詩集』現代詩文庫 思潮社

倉田比羽子詩集 (現代詩文庫)

倉田比羽子詩集 (現代詩文庫)




袋に入れてもらったPR誌




*「scriputa」 autumn 2012 号  紀伊國屋書店
*「春秋」 2012/10/月号   春秋社



 未見のときから、一段組のページがあると聞いていた倉田の本は、
 確かに途中の単行詩集のところが一段組。
 たぶん絶版の「新選・入沢康夫詩集」の「わが出雲」の部分よりは
 はるかに小さい活字。
 本屋内を少し長めに散策したため、結構疲れてしまったのでまだ未読。





◇「現代思想」や「at」とかのバックナンバーもあるこのアバンテイの6階は、
 建物が古いので天井は低い。京都に住む本好きにはそれなりの人気店。
 本好きの人はそれでも三月書房とかにいってはしまうんだけれども。
 御中虫さんの『関揺れる』も実物を棚ではじめて拝見。

関揺れる―御中虫句集

関揺れる―御中虫句集


 タイトできれいな本。フォントは肉厚。
 前島篤志さんらの俳句誌「俳句魂」に載っていた「番長シリーズ」
(「俺のこと番長と呼べオラ」等全部の句に「番長」という言葉が
  入ってる一連ね。)
 とかを私は想起。
 ただ「俳句魂」の人はやはり屈折知識階級系みたいなところがあったから、
 御中虫さんのようにあくまでも眼前の現実に言葉を投げつけてゆくような
 ところは全くなかった。
 「素逝のやつ句がうまくなつたとたんにあの世だ千鳥よ」の絶唱を含む藤後左右の群作
 「千鳥考」も、量と述懐主義的で思い起こされるが、あちらはあちらで何事かを放棄し
 ているような感があった。
 ひとのこころに残る句をこれからも御中虫さんは書いていくのだろう。



◇同じ棚に、「短歌・俳句・川柳」を三ジャンルまとめての一冊の入門・啓蒙書が
 あって、よくあるイエス・ノー占いのフローチャートで「あなたは短歌に」
 「あなたは俳句に」「あなたは川柳に」向いているという2ページに、
 よく思いつくものだ、と感心。

50歳からはじめる俳句・川柳・短歌の教科書

50歳からはじめる俳句・川柳・短歌の教科書

 ああっ! よく考えたらおれ五十歳じゃん!
 監修は、俳句は坊城俊樹、川柳はやすみりえ、短歌は東直子である。
 めずらしかったので印象に残った。
 そうは言うもののまだ膝も本調子ではないし、余計なところに力をかけるから
 眺めていると疲労がたまるので、
 「高柳重信読本」を棚から抜いて高山れおなのサロンパスみたいに
 スッキリする短い高柳論だけを拝読させていただく。
 ああ、スッキリした。




週刊ダイヤモンドのアップル特集は、アップルの企業としての凄みが出ていて
 扇情的な特集だけど、いいものはわるいものでもあるかも、とまた考えたりする。
 文藝春秋別冊か、「ことば」という大判のムックがあって穂村弘のインタビューがある。
 ここでまた穂村は「ハブられて」の歌をひいていて、ほむりんこの歌好っきゃなーと
 脳内関西弁で反応。
 穂村さんは「群像」で短歌原論みたいなことをずっとやっているから、
 言葉の音階が短歌の構造的な単音ごとの順序音階と一音一音結びついているような
 こういう歌に強く惹かれるのかも知れませんね。
 私はそんなに好きじゃないけど。
 「新潮」の最新号は新人賞で、わざわざ最年少受賞と表紙に書いてあるから
 中学生かそれより下かと思ったら19歳くらいの女性でした。



◇近くの喫煙可の喫茶店で珈琲。
 もらったPR誌をつらつら。
 紀伊国屋の「scriputa」は斎藤美奈子平出隆森まゆみ等結構豪華。
 速水建朗という人が東京と劇場版パトレイバーについて書いてたり。
 でも重機って実際使用されてる何割かはレンタルなんだよねえと
 口をはさみたくなったりならなかったり。
 でも平出隆の文章はフォントも文字組も落としてあったりとかなり
 気配りのあるレイアウト。森さんのとかはあとでじっくり。
 「春秋」は定価を線で消してあるけどこれは店員さんがしてるのかしら。
 こちらは私の知ってる執筆者はいなくて、中村元の生誕100年とか、
 山崎闇斎(グーグルIMEで一発変換だぜ!)についての文章が載ってたりします。
 春秋社はずっと経営とか大丈夫なのかな。



◇と、昔よく書いてた「買った本」的な日記をひさしぶりに書いて見ました。
 固有名詞いっぱい出てきて疲れたかも知れませんが本人も疲れたりします(^^;)。
 あ、でももう一冊、松岡正剛松丸本舗に関する本。
 手にとってパラパラ見て、うーん2600円、と思ったら久方ぶりにおおはずしの
 1890円でした。あれで1890円とはね。

松丸本舗主義 奇蹟の本屋、3年間の挑戦。

松丸本舗主義 奇蹟の本屋、3年間の挑戦。



             正岡

北方謙三『寂滅の剣』の感想

寂滅の剣―日向景一郎シリーズ〈5〉 (新潮文庫)

寂滅の剣―日向景一郎シリーズ〈5〉 (新潮文庫)


◇普段肯定的でない文章や物言いをしている人が、
 急に何かをほめる物言いをすると、ああ、結局この人は
 こういうものが好きなだけなんだ、と思ったりする。
 今から北方謙三の『寂滅の剣』の感想を書くのだが、
 そんな風に思われないだろうか、思われてもいいか、
 という気持ちになっている。




◇「西村寿行より文章が短いともう暗号になってしまう」と言った作家
 がいたと思うが、誰だか忘れてしまった。
 「谷があった。水はなかった。」というような文章のことを言っていた
 のだと思う。北方のこのシリーズも比較的短めの文で貫かれていて、
 江戸期の(江戸時代というのには何だか抵抗と軽い恥ずかしさがある)
 人間達の行動や命へのどこか吹っ切れた感覚をそれでよく描いている
 と思う。本作はシリーズ五作目で完結編。今までの四冊は一年に一回
 必ず読み返すぐらいは読んでいた。文庫が出るまで待っていたのは、
 既刊四冊を文庫で持っていたから、と、完結を読むのが名残惜しかった
 から。その前に死んだら後悔したかというと、むしろいいこころ残りがひとつ
 あっていいんじゃないかとか思ったりした。




◇北方の他の小説は、一〜二冊手にとったり読んだりしただけで、
 正直このシリーズ以外は苦手だ。たぶんこれからも読まないと思う。
 新潮文庫のカバー絵はおそろしく地味で、もう転勤したけど職場で唯一
 柄谷行人宮台真司という固有名詞が通じる人が読んでいた四作目を
 借りて読んだのが最初。
 こんなにおもしろいものが出ているのも知らずに文芸雑誌や講談社ノベルス
 やらの諸小説を読んでつまらながっていた自分が馬鹿らしかった。
 とはいえ、大声ですすめるのも恥ずかしい気もするのは、
 どこにも『高級』なところがないからだろうか。
 ブックレビュアーの多くが勧めているのを見たことがないのは大きい。
 単にお前が好きなだけやろ、と暗に言われているようだから。
 人は誰でもそんなものかも知れないし。





◇ものを食い、寝る。起きる。生活の糧を得るために、何がしかの仕事をする。
 老いて、死ぬ。
 主人公、日向景一郎には、年齢の離れた弟がいる。
 二人とも剣の才にたけ、一作目で生まれた弟は、子供の時に景一郎に
 言われて、自分より幼い子どもの首をはねる。三作目の話。




^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^


「森之助」
 言って、景一郎が立ち上がり、脇差を抜いて幸太を縛った縄を切った。
「この子の首を刎ねろ。仕損じるな。一刀のもとにだ」
「はい、兄上」
 森之助が進み出て、刀を抜いた。頭の横に構える。それ以上、森之助の躰は
動かなかった。蒼白になった顔面に、汗の粒が浮き出している。
「臆したか。おまえの刀は竹光か。この子供は死なねばならん。それはお前にも
わかるだろう。斬れ」
 森之助の躰が激しくふるえはじめた。幸太はただ無表情に立ち尽くしている。
誰も、声ひとつあげなかった。森之助の気合が、修理の耳を衝いた。
 人々の頭の上まで、幸太の首が舞い上がった。


                   『絶影の剣』より




^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^



 適度にふられているルビは、省略させて頂いて引いた。
 老いて死ぬことは少なくないが、老いる前に死ぬこともある。
 生も死も、一瞬で変わることがある。
 要はそこに自分が立ち会うか、ということ。
 日向流、という流派を、兄景一郎も弟森之助も使う。
 そして主人公景一郎は、その流派をこの世から消したいと思っている。
 実の父、森之助と同じ名の父は、景一郎自身の手で、斬った。
 次は弟が二十歳になったときに、真剣で立ち会い、生死を決する。
 そういうことになっている。





◇景一郎の剣は、強いと言えば、強い。
 しかしその強さは、時代設定のなかでは、ほとんど無用のものである
 ともなっている。実際野球やゴルフでいかに強くても、「日々」の中では
 多くは無用である。鍛えた身体や感性は役に立つこともある。
 ただそれだけの話である。
 その中でいくつかの事件にー小説中では幕藩政治の軋轢やきしみにー景一郎
 は巻き込まれ、剣を振るう。森之助もまた。
 小説中では多くの人が、死ぬ。
 四作目では、村ごと死ぬ。
 それでも不思議な静謐感がある。
 四作目の書き出しは「人を好きになることもある。」ではじまる。
 生まれてから、死ぬまで、人を好きになることもある。
 恋や性愛ではなく、ただ素直に、その人が望むなら、剣を振るい、
 しかし出来ないことは出来ないといい、ためらわない。





◇「友愛なき平等」がもたらす日常生活の地獄化、とはそれほど言い古されては
 いないが、かといって目新しくもあるまい。
 短歌や俳句が、ある部分では餌ともしてきた「貧」と「病」は、関係性
 と近代的なメガインフラの中でちょっとした空無感の中へ流出し、
 現在を生きるものの複雑な感情の総和として回収されている。
 日常が地獄だというのは悲惨だということではない。
 日常の感覚の中に天国があり、地獄がある。
 その天国の中にまた地獄と天国がある。
 その地獄の中に天国とまた地獄がある。
 私が言っているのはそういうことだ。
 一瞬で、変わることもある。
 ゆっくり、気づかないうちに変わることもある。





◇五作目の本書は、その日向景一郎と森之助が寄宿しつづけている薬草問屋に、
 不穏な気配が起こり、景一郎たちは、多くを聞かぬまま、問屋の主人、
 清六を守るため、迫る敵を斬ってゆく。
 清六が、なんとなく、好きだから。
 そして、その清六が、命をかけて何事かを、守ろうとしているから。
 景一郎の剣は強い。森之助も強い。
 しかしそれより強いものが現れたら、景一郎も森之助も死に、清六も死ぬ。
 そのことは集中、何度も話される。
 それは物事の道理だからである。
 物語は、景一郎と森之助の試合で終る。
 そこまで書いては書きすぎだろう。
 エンターテイメントに感情移入しすぎだと自分でも少し思う。
 しかし「現在」や「小説」への言及や接続にかなりの意識や重量を
 かけている多くの小説より、私にはこの本の中に流れている空気の方が、
 とても好ましく思われた。
 この本は京都イオンモール大垣書店で買った。
 よく晴れた、秋の青い空が、建物を出ると、頭上にあった。




                 正岡


◇少しだけ付記。
 各巻の文庫本の解説はどれもそれなりの脱力パワーをはらんだ麩菓子みたいな
 文章ですが、一巻の解説は特に脱力パワーが激しいので、それは読まずに
 買うとしたら買うのがいいと思います。
 買ったあとカッターで解説ページを切り取っても、その作業にかかる手間が
 無駄ではないくらいには脱力パワーがあると思います。

mixi日記再掲載(4)読んだ本−桜庭一樹・津村紀久子

◇別に小説を読まないわけじゃないですけど、
 やっぱり少ないかなあ。ということで長編と中短編集二冊の感想です。


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読んだ本−桜庭一樹・津村紀久子  2010年11月19日14:41



◇読んだ本


私の男 (文春文庫)

私の男 (文春文庫)

カソウスキの行方

カソウスキの行方






 流れる雲を追いかけながらほんとのことを話してみたい。
 正岡豊でございます。
 なんで日記こんなにあくんだよ。



 さてー。
 続けて読んではいけないものを続けて読んだ気がするこの二冊。
 桜庭一樹ははじめて読んで、そいでももう三年前の小説で、
 三年たつともう誰も読んでいないのかもとかおもったりしますな。
 ネタバレいいかな?




 物語は9歳のときから若い実の父親に抱かれたりなんやかんや
 されてたりしてて、それを止めようとする余計なことしいの
 近所のひとをその女の子が高校生のときに殺してしまって
 云々という作品。
 25歳くらいになってそういう関係も終わりをむかえようと
 してるころに結婚相手のそれ相応のひとがみつかって、
 いっしょになったらその父親はどっかにいってしまった
 とかいうのがあらすじかなー。
 殺人までするひとというのは最初から特別であるという
 設定があるわけだから、リアリティがあるとかないとか
 いうよりも特別であることのステロタイプ性というのが強調
 されてしまうような気がするわけで、そこに
 のめりこめるかどうかが、読後感の良し悪しを決めると
 いうのかなー。そんな感じ。
 で、続けて読んだ津村紀久子のは、芥川賞とったのは
 別の話なんだけど、やっぱり殺人なんか犯さないし
 父親と9歳からエッチなことなんかしてない28歳の女の子の
 言葉と社会の関係性っていうのかねー、そういうのが
 よくよく描かれてる気がして私はとてもおもしろかったです。
 でも私は48歳だからほんとに津村の小説の主人公とおないどし
 くらいの女性にとってはどうなのかなー。
 男ってわりと女のことばかり考えてるところが
 あるわけじゃないですか。
 いや同性愛系のひとのことはまあ置くとして。
 まあそうじゃなくて新潟県のこととか、水仙のこととか
 機関銃のこととかばかり考えてる男というのもいるわけですが、
 やはり仁義たって礼節を知るというか死んでばかりいては
 きみだめだよというかそれなりに20代くらいならそうじゃないのかな。
 でもやっぱり女性というのは男のことを考えてるようで
 そこでやっぱり内省的に常に反射としての自分の
 女性性について考えてるというかねえ、
 そんな気がするわけですよ。
 なかで「ああ!」とか思ったのはたとえばこういうくだり。



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それから、持っていないだろうと思いつつも、ハンドクリーム
を作るための尿素を借りに行ったら、「園芸用のだけど」とい
う注釈付きで本当に出してきたこともあった。尿素といってそ
れを何に使うかわかるだけならまだしも、自宅に常備している
男は初めてだった。園芸用といった手前だからかどうかはわか
らないが、ベランダで作ったというじゃがいもと小松菜を分け
てくれた。イモと葉っぱと尿素を持って階段を降りながら、い
い人なんだけどなあ、とイリエは首を傾げていた。ブログを書
いていたら読むだろうけれど、付き合いたいかというとそれは
謎だ。



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 ああっ!
 ブログを書いてたら読むだろうけど!
 ツイッターやってたらフォローするだろうけど!
 青磁社のシンポで吉川宏志と対談したあとやたらに遠い目を
 して、おもしろかったですよ、と言われたら「もっといって
 ください!」とかいってたらそれなりにかわいいと思うけど!
 ま、最後のはいいけど、そういう男への感じ方考え方という
 のは微妙な値踏み感とそう考えるだけの人間関係とその満足
 不満足への微妙な切迫感があっていいんじゃないでしょうか。
 あと津村の本は3つの短編がはいってて、これが表題作、次の
 にも、化粧水を自作する女性が出てくるんだけどこういうの
 もなんかいまっぽくていいなあ、と単純に私は思ってしまい
 ます。短歌つくんのとどっちがいいのかとかは思わないけど。


 だいたいいわゆる広義のミステリーでは何かを守ろうとして
 「殺人」という行為が発生しちゃうわけですけど、どっちかと
 いうと津村の小説に出てくるような女の子のほうが、なんか人
 生のしょうもなさと貴重さがわかってるような気がして
 いいかなあ、とか思ってしまいますなあ。
 主人公の女性が男と二人きりで会社のテレビをみてかえってきた
 あと「やりましょうって言えばよかった」とかいうくだりも
 すごくいいなあ、と思った。








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◇2012/10/4付記




◇桜庭さんのは一応広義のミステリだから、あらすじ紹介しては
 いかんかも知れないのだけど、うーん。
 昔のミステリは「悪いやつ」が事件を起こしてましたけど
 数年前の何年かは「頭のいいやつ」が事件を起こすという感じでしたねえ。
 今はなんなんだろう、「共感を呼ぶ人」が事件を起こすんでしょうかねえ。
 『図書館戦争』なんかもあんな話だとは思わなくて、
 もっとブラッドベリとかあんなんかな、と思ってて、読んだら
 「女の子ストーリー」だったのでびっくりしました。
 でも売れるということはそれだけの価値を認めてる人がいるということ。
 職場の20代の独身の男の子もなんか文庫本読んでると思ったら
 『境界のラグランジェ』とかだったりするわけで。
 この間『文学賞メッタ斬り!リターンズ』の並送本を読み返してたら
 三並夏の「平成マシンガンズ」の話とか出てきてて、うーん、あ、
 おれこれ「文藝」で読んでるじゃん、またイジメ小説かーとか
 がっくりきたんだった、と思い出した次第です。
 「蹴りたい背中」もイジメ小説に思えたけど、ジャンル化したら
 だめなんでしょうかねえ。
 『文学賞-』はもう文庫化してる古い本ですが豊崎さんはここで田中康夫
 『なんとなく、クリスタル』を結構否定的に語っています。
 私は冒頭の十数ページの「言葉の流れ」はすごく感心しました。
 今の人はどういう風に読むんでしょう。
 それにしても大辻隆弘の『岡井隆と初期未来-若き歌人たちの肖像』が
 本屋大賞あたりに選ばれる(小説だけか、あれは)ような時代が
 一度でいいからこないものでしょうかねえ。
 「不条理」じゃなくて「正条理」が紡がれるテキストというのは
 結構得難いものだと思うんですけどなあ。




◇あ、「死んでばかりいてはきみだめだよ」というのは北川透の詩の
 フレーズです。ちょっとなんの詩かはもう忘れましたが、古い
 −1995年以前−ものです。




◇『青磁社のシンポで吉川宏志と対談したあとやたらに遠い目を
 して、おもしろかったですよ、と言われたら「もっといって
 ください!」とかいってたらそれなりにかわいいと思うけど! 』
 というのは斉藤斎藤のことです。同じシンポの高野公彦さんの
 話はおそろしく退屈でしたが、斉藤斎藤は孤独そうな感じがすっかり
 抜けてて青年歌人っぽくてよかったですね。
 「短歌研究」の「うたう☆クラブ」の斉藤斎藤のコーチの文は、
 「いま頭のいい人間(歌人じゃなくて人間)が短歌を語ると
 こういう風になる」というとても見事なコーチングになってると
 思いますね。
 私は短歌や俳句のことを語ってるようでも実は自分のことしか
 言ってないので、わかりにくかったりするわけですけど。
 それはそれでいい、というのは諦めではなくて、
 私の希望が結局はそこにしかないからです。



           正岡